今後のスケジュール

<緊急のお知らせ>
玉縄歴史の会では、各月の公開講座、歴史散策会に参加される皆さまの安全、安心を確保するため、新型コロナウイルス感染防止対策(マスク着用、手指消毒、検温、三蜜防止、会場内換気)を徹底して開催します。ご理解・ご協力をお願いします。
公開講座(定例勉強会)の開催について

★2022年 1月度 (第281回 公開講座) 「玉縄のお正月」
  日時:2022年(令和4年)1月9日(日)14:00ごろ ~ 15:30 (※第2日曜日)  
  会場:玉縄学習センター分室・第3集会室 (たまなわ交流センター2階) 
  講師:関 根  肇  氏(玉縄歴史の会 会長)
  講演概要:江戸末期から明治・大正時代のお正月を過ごして来られた方々の聞き取り調査をした記録がありますので、
       100年昔前のお正月に思いを馳せてみましょう。

(注) 本講座は、当日午後1時30分からの開催の「2022年(令和4年)度 玉縄歴史の会総会」終了後(午後2時ごろ)に開始します。
★2021年 12月度 (第280回 公開講座) 「地域の古文書を読む~鎌倉郡今泉村の溜池について~」
  日時:2021年(令和3年)12月5日(日)13:30 ~ 15:30  
  会場:玉縄学習センター分室・第3集会室 (たまなわ交流センター2階) 
  講師:浮 田  定 則  氏(玉縄歴史の会 会員)
  解説:平 田  恵 美  氏(鎌倉市中央図書館近代史資料室 玉縄歴史の会古文書の会講師)
  講演概要:鎌倉市今泉には大船と岩瀬の溜池を前身とする「散在ガ池森林公園」があります。なぜ、隣村の灌漑用水が今泉に
       作られたのか?地域の古文書から迫ります。
          
    <注> <公開講座(定例勉強会)に関する問い合わせ先>
        玉縄歴史の会・事務局 澤野 雅勝
          sawano-ms@jcom.zap.ne.jp  090-7418-4970

歴史散策会の開催について
★歴史散策会のこれからの予定
    歴史散策会の予定 
    2021年(令和3年)12月から2022年(令和4年)2月までお休みです。
    ※歴史散策会参加者~原則・玉縄歴史の会会員(但し、会員の紹介があれば非会員も参加可能)
         <注> <歴史散策会の参加者について>
         参加者は原則として「玉縄歴史の会」の会員に限ります。但し、会員の紹介があれば会員以外の方も参加可能です。
   <注> <歴史散策会の延期または中止の判断>

            歴史散策会当日の午前6時56分ごろからのNHK総合テレビ番組「おはよう日本~関東地方の気象情報」の中で、                           午前中雨天(傘マーク)予報の場合は延期または中止します。
          <注> <歴史散策会に関する問い合わせ先>
                                      玉縄歴史の会世話人(歴史散策会担当) 藤 田  武 080-1097-1897

<「公開講座」(定例勉強会)>

 

第279回 公開講座「玉縄城と本牧郷 小田原北条氏の進出と本牧の役割」  

2021年(令和3年)11月14日(日)  13:30~15:40
玉縄学習センター分室・第3集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:38名 (会員 30名、一般 8名)

講師:相 澤 竜 次 氏 (公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 横浜市八聖殿郷土資料館 館長)      

【 公開講座開会前に~講師の紹介~ 】
玉縄歴史の会・関根会長が公開講座の開会に先立ち、講師の相澤氏を紹介しながら「本日は、当会の公開講座では大変珍しいテーマで、興味深いお話を聞かせていただけます」と挨拶をしました。
続けて、講師の相澤氏が自己紹介を兼ねて館長として勤務する「横浜市八聖殿(はっせいでん)郷土資料館」について「横浜・本牧の丘に立つ博物館で、昭和8年(1933年)大正から昭和初期に逓信大臣や内務大臣など歴任した熊本県出身の政治家・安達謙蔵の別荘として建てられました。安達氏は日本放送協会(NHK)や羽田空港などの創設に携わり、渋沢栄一と共に近代日本の建設に功績がありました。また、「選挙の神様」(※1)と言われ選挙参謀として手腕を発揮した人物です」と説明されました(配付資料―「横浜八聖殿(はっせいでん)郷土資料館」)。

【 はじめに 】
講師は、本講座ではなぜ戦国時代が始まっていったのか。戦国時代と呼ばれている乱世の時代、当時の日本国内はどのような危機に見舞われていたのか、その背景にあった出来事を見直しながら、その中で、小田原北条氏はいつ、どこから現れ、どのようにして玉縄・本牧・三浦へと進出し、関東一円を制していったのか。また、所領拡帳の中で、拠点がどのように動いていったのか。小田原北条氏にとって本牧はどのような場所であったのか。秀吉軍による小田原攻めまでの期間を、関係する史料を読み解きながら解説・講演されました。

配布画像資料の紹介 (画像クリックで拡大)
宗端・伊勢氏制札写 歴代古案四 上杉文書/永正九年十二月六日 米沢市上杉博物館所蔵(左)と小田原北条氏 最盛期の領域図(右) 
 
 

第278回 公開講座「江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)の功績―鎌倉を治めた幕末の偉人・代官-」

2021年(令和3年)10月10日(日)  13:30~15:33
玉縄学習センター・第4集会室 (玉縄行政センター3階)
参加者:63名 (会員 28名、一般 33名、その他 2名)

※講師:橋 本  敬 之 氏 (NPO法人伊豆学研究会理事長、公益財団法人江川文庫 学芸員) 

【 公開講座開会前に~講師の紹介~ 】
講演に先立ち、玉縄歴史の会世話人・清田光治氏が公開講座開会あいさつの中で、講師の橋本敬之氏について「静岡大学ご卒業。日本近世史ご専攻。静岡県教育委員会に勤務されながら静岡県史をはじめ自治体史編纂のための調査、論文執筆活動。そして文化財・自然環境保護のためNPO法人伊豆学研究会を立ち上げられ、現在は理事長をされております。また、公益財団法人江川文庫学芸員及び江川英龍公を広める会副会長も併せてお務めです。静岡県伊豆の国市韮山に所在する江川文庫には江川家から引き継がれた中世以来の膨大且つ貴重な史(資)料が保管されています。橋本先生がその資料の分類整理、調査研究を行っておられます。」と紹介しました。

【 はじめに 】
講師は始めに、「伊豆の話をさせていただきます」と述べ、幕末に江川太郎左衛門家第36代当主、第9代韮山代官に就任し、内憂外患の激動時代において、「日本のために働く」ことを信念に数々の功績を残した、偉人・名代官として歴史上高く評価されている江川太郎左衛門英龍(坦庵(たんなん))の生涯・人物像を、江川文庫に保管されている史(資)料を映像化して、解説・講演されました。
■ 江川太郎左衛門英龍(坦庵)以前の江川氏
◎ 江川氏略系図(江川家所蔵「系譜」に基づく系図より)
★始祖:源満仲:次男・頼房⇒大和源氏・大和国宇野荘に本拠を置き、宇野氏を名乗っていた。 ★韮山に移住:第9代当主:親信⇒京における源氏勢力の弱まり、身の安全を図って、宇野氏(江川家)は源氏の勢力がある関東の一角、伊豆の韮山(静岡県伊豆の国市韮山)八牧(やまき)の地に移住したと言われている。 ★日蓮に帰依する:第16代・英親⇒伊豆に流されていた日蓮に深く帰依。その際、日蓮より直筆の棟札を賜り、そのおかげで江川氏の住宅は地震や火災などの被害にあったことがないと言われている。 ★江川氏を称する:第21代当主・英信  ★小田原北条氏に仕える:第23代当主・英住⇒江川家は北条早雲(伊勢宗瑞)の韮山城入城の際、家臣となり北条家のために働く。江川家住宅玄関前に、北条早雲が植えたと伝えられる樹木が現存している(講座の映像説明)。 ★酒の醸造を再開し、早雲に献上した(※1):⇒第24代当主・英盛の弟・正秀  ★太郎左衛門を通称とする:⇒第26代当主・英元  ★徳川氏に仕え代官となる:第28代当主・英長⇒北条家滅亡により徳川家康との関係を築き江川家存亡の危機を脱出することができた。 ★武蔵・相模・伊豆100万石支配代官となる:第31代当主・英暉  ★代官罷免:第32代・英勝⇒世襲が慣例となっていた土豪的代官の多くが幕府への年貢未進を理由に遠島、罷免、お家断絶の処分を受け、土豪的代官から吏僚としての代官に変わった。英勝も韮山代官を罷免され無役となった。 ★関東代官から韮山代官に復帰:第33代当主:英彰⇒寛延2年(1749)江戸へ出府、勘定役の任命を受けた。その際、韮山の屋敷の取り片付けを考えていた時、幕府から「希代の旧家なので、取り払わず、留守居をおいて管理するよう」仰せられた。英彰は代官職に復し、常陸・下総から下野・陸奥までの4万石を支配。宝暦8年(1758)韮山代官へ復帰した。
■ 代官江川氏の支配地域
◎ 江川家28代当主英長が徳川氏に仕え初代代官となり、以後代々代官を務める。
◎ 英龍の代官時代の支配は、江戸役所が相模・武蔵多摩・甲斐、韮山役所が伊豆・箱根・駿河(駿東郡・富士郡)であり、職掌は関東代官(江戸役所)と伊豆代官(韮山役所)でなる。
■ 江川家所蔵史料から
◎ 相模国との関係を示す江川家古文書史料 の記載~ ★「川名村」・「大鋸町」(現在の藤沢市)、「山谷新田」(現在の横浜市戸塚区影取町(藤沢市と鎌倉市に隣接))の地名 ★鎌倉大砲丁打ち場での練習 ★享保16~18年にかけて藤沢宿周辺の6万石支配の代官となっている(『藤沢市史』)。

1.江川太郎左衛門英龍(坦庵)の生涯
<1> 誕生、江川家当主の引継ぎ、代官就任
■ 誕生~享和元年(1801)5月13日 父:35代当主英毅(ひでたけ)、母:安藤久の次男として誕生。
■ 江川家当主~長男英虎が文政4年(1821)足の病で死去(享年25歳)。同年英龍が惣領36代目となり江川家を引き継いだ。
■ 妻子 ~ 妻は石高3500石の旗本・北条権四郎氏政の娘。江川家の史料にはほとんど記載がない。子は5男7女。長男・次男は早逝し、3男・保之丞(英敏)が第37代当主、第10代の代官職を継いだ。
<2> 両親の死、代官就任
■ 両親の死~天保元年(1830)母・久が逝去、同5年3月27日、父・英毅が亡くなった。
■ 代官就任~同6年(1835)5月4日、英龍、35歳にて第9代の代官就任。
<3> 両親の教え
◎ 父:英毅 
○ 英龍が誕生し、命名した際、「興」の字を与えた。父が何事にも、興味を持つ英龍の才能・性格を見抜き、「興」の崩し字を図案化して英龍の花押とした。
○ 父・英毅は当世一流の文人や科学者との交流を持つ風流人。しかし、単なる風流人ではなく、どんな小さなことでも調べ尽くさなくてはいられない学究肌の人であった。このことが英龍の性格形成にも大きな影響を及ぼしている。また、英龍は父の人との交流ネットワークを受け継ぎ、科学的な考え方を学んだ。
◎ 母:久
○ 男子の教育においては文武に厳格であった。天保元年(1830)、死期が迫った母は英龍を枕元に呼び「物事はすべて、およそ人の道を成し遂げようとするときには何事にも耐え忍ぶことから始まるのです。どのような小さなことから大きなことまで忍耐することができる人となることを望む」と諭し、持っていた念珠を「私だと思い、思い出してください」と手渡した。英龍は母・久が諭した「忍」の一文字を大書し心に刻み、この遺言を終身かたく守り、いつでも念珠を離すことなく過ごしている。後に知られるようになった英龍の偉業の樹立も、母の教えによるところが少なくない。

2 代官就任時の社会情勢
◎ 内憂外患の激動時代
○ 内憂 ~ 天保の飢饉、天保7年(1836)8月甲州郡内騒動勃発(※2)
○ 外患 ~ 幕府の無二念打払令発出、モリソン号事件・アヘン戦争の勃発
* 文政8年(1825)幕府は海防の必要性を迫られ、無二念打払令(外国船打払令または異国船打払令)を発出、全国に台場を設置し、日本の沿岸に接近した外国船を見つけ次第砲撃するよう命じた。
* 天保8年モリソン号事件~モリソン号はやむを得ず退去した。幕府は打ち払いに成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ、警備体制の脆弱さを露呈することにもなった(※3)。
* 同11年(1840)アヘン戦争:この戦争は当時の日本にとって、単なる他国の侵略ではすまされないもであった。それは当時の日本の政策(鎖国政策)にとっても大きな脅威となり、後の明治維新にまでつながるきっかけとなった戦争といっても過言でない(※4)。

3.韮山塾(※5)開設
<1> 開設の経緯
英龍がなぜ塾を開くことになったのか、日本を取り巻く外国事情が海防問題を考えなければならなくなり、海防建議書を提出に至った。
■ 英龍が海防問題を考え、海防建議書を提出するにいたる契機となった諸事情
◎ 林子平『海国兵団』(寛政3年(1791)刊行) ~ 「安房、相模の両国に諸侯を置きて入海の瀬戸に厳重の備を設け度事也」の記述から、海防問題を考えなければならないとの示唆を受けた。
◎ モリソン号の接近(前述)~ 天保8年(1837)、初めて海防建議書を提出した。
◎ 幡崎鼎(はたざきかなえ)(1807~1842)との交流 ~ 英龍は海外の知識を貪欲に吸収しようしていた。オランダからシーボルトが出島にやってきた時、薬草調査の小間使いに雇われていた、長崎県出身の幡崎鼎から蘭学を学ぶため交流が始まった。英龍は幡崎鼎に高島秋帆への仲介を依頼している。
◎ 天保9年(1838)、渡辺崋山の「外国事情書」 ~ 英龍は蘭学を通じて海防問題を含め海外事情に詳しかった渡辺崋山へ外国情報をまとめてもらい、建議に役立てようと考えた。しかし、崋山がまとめた「外国事情書」は幕府を非難した過激な内容だったので、英龍が自ら「外国事情申立候書付」(※6)に書き直し、天保10年(1839)5月に建議書として提出した。 
◎ 天保10年(1839)5月、「蛮社の獄」~ 目付・鳥居耀蔵による蘭学者への言論弾圧。高野長英、渡辺崋山らが逮捕された。
◎ 天保12年(1841)、水野忠邦による天保の改革 
<2> 高島秋帆(しゅうはん)との出会い
■ 高島秋帆は長崎・出島で会所調役であった。近代的な軍隊制度や大砲の製造など、高島流砲術を門人たちに広めていた。
■ 英龍は、天保12年(1841)4月、江戸に出てきた高島秋帆の門人となる願いを幕府勘定所へ提出した。
■ 同年5月、老中・水野忠邦は、秋帆が幕府に西洋砲術の採用を進言した「天保上書」を受けて、江戸徳丸原(東京都板橋区高島平)で演練を命じた。この演練に英龍は家来を見学させている。
■ 同年7月、英龍に高島流砲術伝授の命が下り、同11日、高島流大砲秘事を守るべき旨の「免許皆伝の奥義誓詞」の起請文を秋帆に提出し、幕府公認の高島流砲術の伝授者となった。
<3> 韮山塾開設と塾運営
■ 英龍は天保13年(1842)より高嶋流砲術伝達、教授を開始した。
■ 門人 ~ 最初が松代藩士(長野県)・佐久間修理(象山)―天保13年9月8日。2番目が勘定奉行・川路左衛門尉聖謨(ぼ)―同9月9日である。江川家では川路左衛門尉聖謨を第一番入門者としている(英龍の入門者を差別しない教育方針と象山の学習方法に相容れないものがあり、「免許皆伝」には至っていない)。この時から英龍が亡くなる安政2年(1855)までの間に、英龍から約280人が直接教授を受けている。
■ 塾でどんなことを学んだのか
◎ 海防のための青銅砲(大砲)の鋳造
○ 全国各地で大砲需要があり、最初の注文者は水野忠邦であった。 
* 松前藩―ロシアとの最前線、佐賀藩―長崎防備、松代藩―藩主真田幸貫が海防掛にあり、大砲を必要とした。
○ 鋳物師の長谷川刑部を招聘した。
○ 刀鍛冶・大慶直胤(たいけいなおたね)と鉄の共同研究
* 英龍公著「たたら考」部分
・ 反射炉の研究 ~ 韮山反射炉を造るため、大慶直胤の門人になって鉄の共同研究を行った。大慶直胤から「日本の砂鉄からできる銑鉄では大砲ができない。それを南蛮銃のようになる工夫ができれば、日本の御為になる、是非工夫してほしい」と手紙をもらいヨーロッパで使われる南蛮銃のようにする工夫を凝らした。
◎ 塾の講義と規則
○ 角打ち(鉄砲による的打ち)
* 弘化2年(1845)正月2日に行われた角打ちの八幡神社(江川邸内にある)への奉納額が残されている。
○ 山猟 
* 山猟は砲術伝授の実践の場である。英龍は猟の間は、いっさい幕府や代官所の公務から離れて山に籠る。多くの門人を教育することで、いつか日本のために役立つ人材が育つという信念が、彼の主催する山猟には見てとれる。
* 山猟中に詩(漢詩)の講読をした。詩を聴くことは文章を書くことに役立つと考えていた。
* 山猟にパンを携行した。英龍はパン祖と言われている。英龍は、高島秋帆の弟子からパン製造の知識を得て韮山でパンを焼いた。パンは食パンではなく、携帯食の乾パンに近いものである。パンは西洋人の兵糧と言われた。
○ 規則
*「韮山塾中取締方心得」
・ 読書は修身斉家の要道(しゅうしんせいか:自分の行いを正し、家庭を整えるために大切である)(※7)であるから、日取りを定めて輪読・会読等を行い、欠席しないこと。
・ 詩(漢詩)を聴くことは無用のことという者がいるが、詩を聴かなければ、文章は書けない。文章が書けなければ経書と歴史書を真に理解することはできない。
・ 国家のために勉強するのである。奢侈は慎まなければならない。
◎ 韮山反射炉と品川沖台場(※8)建設
○ 韮山反射炉建造
* ペリー来航(嘉永6年(1853))(※9)によって、老中・阿部正弘は英龍を勘定吟味役格海防掛に任命した。天保14年(1843)の水野忠邦の老中失脚とともに、鉄砲方を解任された英達に再び活躍の場が訪れた。
* 反射炉(※10)建造が加速した。
* 佐賀藩との協力 ~ 日本にオランダ人ヒュゲエニンが著した『ライク王立大砲鋳造所における鋳造法』が入ってきたのは天保初め(1830年代前半)で、佐賀藩主・鍋島直正と江川英龍の交流において翻訳されている。反射炉研究は英龍が始めたが、日本初の反射炉は、幕府から資金を調達した佐賀藩が嘉永3年(1850)に完成させている。この時、佐賀藩は英龍に教授を乞い、英龍も積極的に協力した。
* ペリー来航により、国防の観点から反射炉の必要性を強く感じた英龍は、手代・八田兵助を反射炉建設責任者に付けた。英龍は韮山での着工までは見届けたが、安政2年(1855)に没した。英龍の跡を継いだ第37代当主・英敏が佐賀藩技師の応援を得て安政4年(1857)11月完成させた。反射炉に火が入り、銑鉄の溶解、鋳造が始まり、安政5年(1858)3月30日、遂に韮山反射炉製の一番砲である18ポンド砲が完成し、見事試射に成功している。
* それ以降、7年間に数多くの大砲が鋳造され、沼津港から、伊豆半島の南端を迂回して品川台場に28門が配備されたという。しかし、元治元年(1864)8月、韮山反射炉の閉鎖が決定した。
* この韮山反射炉は、大正11年(1922)国指定史跡となって現在も保存されている。
○ 品川沖台場建設
* 欧米諸国の船が燃料や食料を求め、また通商を求め来航する事件が増加する状況下で、将軍の居城である江戸城とその城下町江戸を守る江戸湾防備の必要性が増大していった。英龍は湾内で最も狭い相模国走水(神奈川県横須賀市)と上総国富津(千葉県富津市)を防衛ラインとして、江戸湾に接する武蔵・相模・上総・安房四カ国の沿岸を、将軍に比較的近い親藩・譜代大名によって固め、防備しようと考えていた。品川台場はその最終仕上げであり、最終防衛ラインであった。
* ペリー退去後、幕閣はすぐに英龍や勘定奉行・川路聖謨らに命じて相模湾から安房の海岸線巡視を行った。英龍は見分を踏まえ、富津州先(富津市)から旗山崎(横須賀市)の間に9基の台場を築き、江戸湾を封鎖する浦賀水道の防御案を答申している。しかし、この案では莫大な費用と完成までの年月を要するので、次善の策として、品川漁師町(品川区)から深川洲崎(江東区)にかけて海上に11基、御殿山下に1基の合計12基の台場を築くことが決まり、台場築造の担当者に英龍が任命された。
* 英龍はこの台場築造にあたり西洋式の築造術を設計に取り入れようとして、先ず模型を作った。実際は変更され、計画の12基台場が幕府の財政難から、中止や未完成の台場が相次ぎ、最終的に6基の台場を完成して事業は終了した。
* ペリーは1年後の再来航を約して去ったが、実際には半年後の嘉永7年(1854)1月16日に浦賀に再来航しており、この台場の完成は間に合わなかった。また、上物も急造だが、使用する大砲も旧態依然の青銅製で、最新式の製鉄大砲を生産し台場に設置することを考えていたであろう英龍には、不本意な台場であったと思われる。

4.蘭書の翻訳
<1> 矢田部卿雲の採用
■ 英龍は大砲の試射などによる技術研鑽とは別に、蘭学による軍事研究に心血を注いだ。英龍は蘭学を勉強していたので多くの蘭書に目を通し、その中から日本語に訳す必要がある蘭書を選別し訳させた。英龍のもとで蘭書翻訳等に尽力したのは、韮山代官家臣塾で教育を受け、英龍の推挙で蘭学塾「日習堂」に学んだ矢田部卿雲と石井修三である。卿雲は武蔵国の農民の子に生まれ、どのような経緯で蘭学を学んだか定かでないが蘭語に対する知識は群を抜いていた。
■ 卿雲は代官としての江川家の手付・手代には名前が載っていない。終止勝手方手代として私的に雇われていたものと考えられ、代官の手代などの3倍の給金を支給されていた。
■ 卿雲は、大砲の設計図も作成している。現在江川文庫にはモルチール砲、カノン、ホーウイッスル(野戦砲)など各種の模型、膨大な大砲の設計図が残されている。設計図は実寸大に記されている。実際には薩摩藩士をはじめ多くの研究者が携わったはずであるが、記名があるのは矢田部卿雲だけである。
<2> 号令詞の日本語訳
■ 嘉永5年(1852)全国砲術訓練において、使用しているオランダ語の生兵教練号令詞(せいへいきょうれんごうれいし)がわかりにくく、幕府から日本語に訳すよう全国に指令され、矢田部卿雲が「気をつけ」「休め」「右にならえ」「前へ進め」等に訳した。現在まで繋がり、運動会等で使われている号令の元がここにある。

5.英龍の絵、書、詩、印章
英龍は画才があり江川家には、英龍が書いた自然界の動物・植物、庶民の生活の絵が数多く残されている。また母の教えを表した書、韮山塾生の教育のための書画・漢詩も保存されている。
<1> 英龍の絵の師匠は、画家の谷文晁(たにぶんちょう)(※11)、大国士豊(おおくにしほう)(※12)と考えられている。
<2> 英龍が書いた絵
■ 英龍は、植物、昆虫、魚、鳥、動物、日常生活の人物画などの多くにわたり、学者と同じような視線で、観察に必要なところだけを実物大に描いている。
<3> 書
■ 書にはその時の自分の思いを託した。大書の「忍」は母の教えが、「富士山画賛」(※13)には思いが籠っている。
<4> 詩(漢詩)
詩は英龍が最も好むものの一つで、英龍の自らの気持ちを表現し、また、彼のもとに集まった青年たちに指針を与えるために最も相応しいと考え、漢詩づくりに力を注いだ。
<5> 印章
■ 英龍は、父・英毅同様多くの印章を残している。「龍」の印章は有名である。また、「聊得我楽」(「いささかの自分の楽しみを得た」の意味)の印章は、まさに「忙中閑あり」を印章に表している。後年の英龍の忙しさは並大抵ではなかったはずだ。その中で絵を描き、書をしたため、彫金に楽しみを得ていたのだろう。忙しいからこそこれらに没頭することによって、仕事と生活のバランスをとっていたものと思われる。これがなかったら、英龍の仕事は残らなかっただろう。
 
【 まとめ 】
<1> 英龍の死と韮山塾の閉鎖
■ 英龍の死
◎ ペリー来航後、多忙を極めていた(※14)英龍は、嘉永7年(安政元年)(1854)12月風邪をこじらせ肺炎を併発、一進一退の病状を繰り返し、江戸の名だたる蘭方医の治療を受けたが回復することなく、安政2年(1855)正月16日、不帰の人となった。享年55歳(満53歳)。韮山塾は閉鎖された。
<2> 江戸芝新銭座に開設の半官半民の「縄武館(じょうぶかん)」
((注)東京タワーから撮影したお台場の映像を映し、「芝新銭座」(現在の浜離宮のあたり)跡を指し説明した)。
■ 英龍没後は韮山塾を廃して、芝新銭座(しばしんせんざ)において多くの門人の教育が行われた。安政2年(1855)5月英龍の跡を継いだ英敏に対して、幕府は芝新銭座に八千数百坪の土地を下賜した。江戸本所南割下水にあった江戸役所はここへ移転し、大小砲専門の演習場と付属建物が設置された。これが、芝新銭座大小砲習練場である。
■ この習練場は半官立となり、幕府の徒組(かちぐみ)が入門して西洋砲術を習得したのをはじめ、数多くの幕臣、諸藩士が入門している。全国の、次の時代を担う藩の優秀な若者がここに集まり、国防を真剣に考え、高島流砲術をはじめ、洋学を通して新しい学問を獲得していった。
■ 習練場には理論を学ぶための学塾も併設されており、こちらは江川家の私塾で「縄武館」と呼んでいた。
■ 芝新銭座大小砲習練場は、近代日本を支えた多くの人材を輩出している。黒田了介(清隆)、大山彌介(巌)、木戸孝允、井上馨らである。
<3>近代陸軍の祖
■ 幕末における西洋砲術導入の動きは、高島秋帆による西洋砲術の大成、江川英龍への伝授、英龍による韮山塾での教授、英龍没後その門人たちによる芝新銭座大小砲習練場での普及、さらに講武所から陸軍所へと繋がる一連の流れがあった。それが、さらに明治維新後の陸海軍にも受け継がれ、近代日本を支える基盤の一つになったものである。

そして、最後に講師は、「英龍は、甲州微行の冒険心・大胆さと絵を描く繊細なところの両方を備えもっていた人物です。英龍の「滅私」、「日本国のために何ができるか」の信念で自ら研究し、実行に移す行動哲学から、今、我々は学ぶことが多くあります。今の厳しいコロナ禍に、英龍ならどう生きただろうか、どう提言するだろうかと考えてみてください。」と結びました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(参考1)◆ 公開講座配布資料 <1>「江川英龍の功績~鎌倉を治めた幕末の偉人・代官~」 A4判2頁・2枚、<2>その他A4判3枚(※以後、「配付資料」とする)。 

(参考2)◆ 本講座会場は定員150人の広い集会室であり、参加者は抽選によらず会員、一般希望者全員が参加できました。
また、本講座への参加呼びかけのため、事前にチラシ「江川太郎左衛門英龍の功績~鎌倉を治めた幕末の偉人・代官~」を作成した。
◆ 新型コロナウイルス感染防止対策の基本(マスクの着用、手指消毒、検温、席の間隔確保、会場内の換気)を徹底して開催した。

(参考3)◆(※1)酒の醸造:江川氏は、大和国宇野荘より酒造技術を持って韮山に移住した。寛永家譜によると、執権・北条時頼の時代(執権在職:1246~1256)まで酒造を行っていた。明応2年(1493)北条早雲が韮山城に入った頃、24代英盛の弟・正秀が酒の醸造を再開し早雲に献上。「江川酒」の名称が使われるようになり、戦国期に酒造業は発展し、「江川酒」は戦国を代表する銘酒と言われた。北条氏は他の戦国大名へ進物として、清酒「江川」をしきりに使っている。元禄期(17世紀末)に、年貢収入の一部を現物で受け取る方法ではなく、給米として渡される切米とされたため、米が江川家に残されることがなくなり、醸造を終了せざるを得なくなった。◆(※2)天保の飢饉、天保7年(1836)8月甲州郡内騒動勃発:*英龍が代官を継いだ翌天保7年は、全国的に飢饉が深刻さを増した年。*天保7年8月に甲斐国(山梨県)で百姓一揆(天保騒動、郡内騒動、甲州騒動ともいう)が発生。この騒動の場所は支配地に隣接し、支配地の人々にも伝播するような勢いであった。そこで、英龍は自ら支配地の村々を巡回し、支配地に対し慈愛に満ちた対策を打って民心の安定につとめ、拡大することなく騒動は収まった。領民たちは英龍を「世直し大明神」と崇め、のぼり旗を掲げてお祝いをしている。また天保8年(1837)には、大坂で大塩平八郎の乱が発生。このとき英龍は刀売りに身を扮して支配地の甲州に偵察に行っている。自ら「甲州微行図」を書いている(江川家保存)。 ◆(※3)モリソン号事件:天保8年(1837)6月2日に日本人漂流民の送還と通商・布教のためアメリカ商船「モリソン号」が浦賀に接近。このモリソン号に対して、浦賀奉行が異国船打払令に基づき小田原藩と川越藩に命じ、平根山台場(横須賀市)から砲撃、モリソン号が退去した。◆(※4)アヘン戦争:欧米諸国では産業革命が進み、資本家と政府が結びついた列強諸国は市場拡大のためにアジアを目指し、植民地政策を展開していた。天保11年(1840)から2年間にわたり清国とイギリスの間にアヘン戦争が勃発。当時イギリスは、中国(清)から大量に茶や陶磁器を輸入していたが、それに見合う輸出商品がなかった。また、清から支払いに銀を求められたが、イギリスも銀の国外流失を抑制する政策をとっていたため、輸入超過分の支払いに苦慮していた。そこで目をつけたのがイギリス領インドでのアヘン栽培。これを中国に密輸し、その超過分を補おうとしたがこれに怒りを示した清は、イギリス商人からアヘンを没収し、焼却。これをきかっけに戦争へ突入していった。明らかに非はイギリスにあったが、その武力の前に清は屈服せざるを得なかった。そして関税自主権を持たない、治外法権、最恵国待遇を認めるという、屈辱的な内容の南京条約が1842年8月29日に締結された。◆(※5)韮山塾:英龍が高島砲術を教えていた塾を韮山塾と呼んでいるが、正式な名称ではない。塾生たちが便宜上このように呼んでいたことを示す史料が、地元旧名主宅に『韮山日記』が残されていたことから、通称「韮山塾」としている。◆(※6)「外国事情申立候書付」:英龍は「ヨーロッパ諸国が迫ってくるのは、日本には米があるがヨーロッパにはなく貧しいため」と建議。◆(※7)修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか):自分の行いを正し、家庭を整え、次に国家を治めてはじめて天下は平和になる。天下を治めるには順序があるということ(『日本語大辞典』1989年 講談社)。◆(※8)台場:外国船攻撃のため海岸に築く砲台のこと。幕府は、文化5年(1808)4月に、下田・浦賀付近の下検分を行い、同8年(1811)、相模国側の観音崎(横須賀市)、浦賀口の平根山等5カ所に台場を設置。その後、幕府は箱館・クナシリ等、江戸湾周辺の海岸に多くの砲台を築いた。◆(※9)ペリー来航:嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて、ペリーを司令官とするアメリカの東インド艦隊4隻が浦賀沖に来航。4隻には大小合わせて63門の艦載砲が装備、江戸湾を防備する各藩の備砲では太刀打ちできなかった。アメリカ艦隊の威力に屈し、やむなく大統領の親書を受け取らざるを得なかった幕府に対して、ペリーは翌春の再来航と、親書への回答を受け取ることを約束させた。◆(※10)反射炉:銑鉄を溶かして炭素などの不純物を減らし大砲を鋳造した溶解炉である。熱や炎を湾曲した天井で反射させて鉄の溶解温度1500度以上をだすように工夫されているので反射炉と呼ばれる。◆(※11)谷文晁:1763年~1841年、関東南画(人物画)の大成者。狩野派、円山・四条派、土佐派、洋風画などを学び一家をなした。◆(※12)大国士豊:伊勢出身、円山・四条派(土佐派)画家。天保11年(1840)、英龍が江戸城に登城する姿を描いてもらった画が残っている(江川英龍肖像)。◆(※13)富士山画賛:「さとはまだ 夜深し富士の 朝日影」(解釈~富士の山頂には新しい世が動き始めているように朝日が照らし始めた。しかし里人は新しい夜明けがいつ来るか知らず深い眠りの中にいる)。◆(※14)多忙を極めていた:品川台場や韮山反射炉の築造、日米和親条約・下田条約締結などへの出張、海防・外交問題を論じる連日の登城、幕閣との面談、来訪客の応対、韮山塾での門人への教授。 
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(注)この公開講座記録は、★橋本敬之著『勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる巨人 江川英龍』 2014年(株)KADOKAWA発行、★「江川英龍と韮山塾」の動画(YouTube)~「韮山高校創立150周年市民講座「江川英龍と韮山塾」令和3年4月24日 公益財団法人江川文庫 橋本敬之」 を参考とした。

>>当日のチラシをDL  江川太郎左衛門英龍の功績 
 

第277回 公開講座「三浦義村と中世国家」

2021年(令和3年)9月5日(日)  13:30~15:53
玉縄学習センター・第4集会室 (玉縄行政センター3階)
参加者:69名 (会員 29名  一般 40名 )

※講師:真 鍋  淳 哉 氏 (青山学院大学非常勤講師)  

(はじめに)
 ■ 講師は、先ず自らの研究分野を「専門は日本中世史、その中の戦国時代です。研究方法は文献を読み解きながら進める文献史学です」と紹介し、三浦義村の研究について「横須賀市史編纂に携わるようになって三浦氏に関する史料を読み解く機会が多くなり、人物像が従来から説かれていた『北条義時と相克を繰り広げたというマイナーなイメージはとんでもないことだ』と分かりました」と述べました。
■ 講演は、『愚管抄(ぐかんしょう)』(※1)、『明月記』(※2)、『吾妻鏡』(※3)、『古今著聞集』(※4)、『平戸記(へいこき)』(※5)等古文書の史料(解読文・現代語訳)の記述を根拠として読み解きながら、〇北条義時との関係性、〇源実朝殺害事件、〇京都政界との関わり等個々の論点を解明しました。 
■ 講師は義村について、和田合戦、承久の乱勃発の重大局面で「肉親の報より『累代の主君』という論理を優先し、幕府の体制や秩序といった『あるべき姿』を尊重した姿勢を貫き、北条義時との協調関係・幕府体制の擁護を維持し、三浦氏の隆盛をもたらした。そして『承久の乱後の中世国家を再構築した』と評価できる大きな歴史的役割を果たした」と強調しました。

1.義村の登場と人物像
■ 義村は生年が不明、没年は延応元年(1239)、没年齢は未詳で70代中頃かと言われる。北条義時(長寛元年(1163)~元仁元年(1224)62歳」)より2~3歳年少かと推測される。
◎治承4年(1180)から寿永元年(1182)の間に元服した可能性が高く、奥州合戦(※6)に従軍、建久元年(1190)の源頼朝上洛の際には、父義澄の譲りにより右兵衛尉に任官し、歴史に登場した。
■ 三浦氏の中で良く知られているのは義明(義村の祖父)、義澄(よしずみ・義村の父)のことであろう。義村について名前は知っていても何をした人物か答えられない人が多い。ところが悪い意味ではなく「辣腕」ぶりを発揮して、幕府の中心で活躍し、京都政界に大きな影響を及ぼし、三浦氏一族の隆盛をもたらした大変な人物である。

2.和田合戦と三浦義村
(注)「和田合戦(和田氏の乱)」とは
<1>源頼朝の死後、鎌倉では北条氏の台頭とともに、幕府草創期に活躍した有力御家人がつぎつぎに滅亡してゆくが、そうした流れの中でおこった事件。建保元年(建暦3年)(1213)5月和田義盛以下その一門が北条に対して武力抗争を試み、結果的には敗れて一族が滅亡する(『国史大辞典第14巻』安田元久執筆、平成5年 吉川弘文館)。
<2>三浦義村は、正治2年(1200)、父義澄が没し三浦家宗本家の家督を継いだ。一方、和田義盛(義明の孫・義明の長男杉本義宗の子)は義村より15歳ほど年上で幕府における地位、朝廷の官位も勝っていた。義盛は三浦一族の中で惣領家を凌駕し、有力御家人としての地位を確立した。そのことが執権北条氏と対立関係、三浦惣領家と対立の芽を生じさせた。和田義盛は北条氏打倒をもくろみ、反北条氏勢力を結集し、建暦3年(1213)5月、戦いを挑んだ(講師講演、『愚管抄』巻第六・順徳、『明月記』建暦3年(1213)5月9日条)。

■ 和田合戦の鍵 
和田義盛は、三浦一族の惣領である義村にも協力を求めた。義村は当初、弟胤義(たねよし)とともに同意したが、合戦勃発直前に計画実行を躊躇し、北条義時に通報した。激しい合戦の末、義盛は敗死し和田氏は滅亡した。この合戦の鍵は義村の寝返りであり、『吾妻鏡』には義村が「三浦家は一貫して源氏の恩恵を被ってきた、今となって肉親の情により主君に弓をつがえることをすれば必ず天の咎めを受けることになると考えた」と記されている(『吾妻鏡』建暦3年(1213)5月2日条)。このことは、「肉親の報」より「累代の主君」という論理を優先し、幕府の体制や秩序といった「あるべき姿」を尊重した義村の姿勢が読み取れる。
■ 一方、関東御家人の評価は、幕府の正月の儀礼の際、口論となった千葉胤綱が「三浦犬は友をくらう也」と皮肉を述べたことが有名である(『古今著聞集』巻十五(闘諍第廿四)。

3.三浦義村と北条氏との協調関係
■ 和田合戦の勝利によって北条得宗家は、侍所別当職(※7)を獲得するなど幕府内部での特別な地位を確定した。一方三浦氏は、義盛旧領の一部を獲得し、また三浦一族惣領の地位を確保し義村はその地位を高めていった。
■ 北条義時が家督就任(元久2年(1205))以降、三浦義村は義時に協力して、三浦氏の地位を高め強化していく道を選択した。健保6年(1218)北条泰時が侍所別当に就任すると、義村は侍所所司(※8)に任じられた。
⇒ 一般御家人の上位に立ち、政治的地位はさらに向上し、北条氏に次ぐ地位を確保したことを示す事実と言える。
■ 承久元年(1219年)正月、将軍源実朝が、公暁(くぎょう)により暗殺され、公暁は三浦義村朝臣長尾定景により打ち取られる。義村を事件の黒幕とする説(※9)があるが、『吾妻鏡』等からうかがえる三浦氏・北条氏の関係から考えればはなはだ疑問であり、事件に黒幕は存在せず、公暁の単独犯行が濃厚である。
■ 実朝暗殺後、幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍とすることを求めたが、上皇は拒否したため、義村の強い推薦によって藤原道家の子三寅(みとら)(後の藤原頼経)に決定し(『愚管抄』巻第六)、鎌倉に下向した。
■ 承久元年11月、義村は駿河の守に補任され、官位が「従五位下」に叙され「諸太夫」と呼ばれる身分になった。北条氏以外御家人としては初めての受領(ずりょう)(※10)補任であった。この当時の駿河は関東御分国(かんとうごぶんこく)(※11)のうちで、実質的に鎌倉殿(※12)が人事権を掌握していた。
⇒ このことは、義村と北条氏との長年の協調関係のなかで実現された結果であり、北条氏にとって三浦氏との提携強化を図る意図があったと読み取れる。

4.承久の乱と三浦義村
(注)「承久の乱」とは
<1>勃発:承久3年(1221) 5月後鳥羽上皇が北条義時追討宣旨(せんじ)を発して、挙兵したが、逆に大敗、鎮圧された事件(『吾妻鏡』承久3年(1221)5月19日条、『国史・7巻』杉橋隆夫著、昭和61年)。
<2>挙兵の原因:摂津の国長江・倉橋(大阪府豊中市・兵庫県尼崎市一帯)両荘の領家職が後鳥羽上皇の寵愛する舞女亀菊に与えられていたところ、両荘の地頭が領家をないがしろにしたため亀菊はこれを上皇に訴え、上皇は地頭の停廃を北条義時に訴えたが、義時はこれを拒否したことが挙兵の原因となったとする記事がある(<1>に同じ。真鍋淳哉執筆論文「三浦氏と京都政界」(『中世人の軌跡を歩く』藤原良章編、2014年3月、高志書院発行に所収(以下、「講師論文」とする)。

■ 承久の乱勃発と三浦義村・胤義兄弟
義村の弟胤義が在京中に幕府との対立を深めていた後鳥羽上皇方に取り込まれていって、上皇方への加担を誘う手紙を兄義村に書き送った。手紙には、北条義時を討つこと、成功の暁には恩賞は望みのままと後鳥羽上皇が述べたことなどが記さていた。
◎ 義村はこの手紙を一顧だにしないで、義時に差出した。
⇒ 義村はその旗幟を鮮明にし、和田合戦の際に見せた幕府の体制や秩序といった「あるべき姿」を尊重する姿勢を貫いたとともに、北条氏との協調関係を選択したといえる。
■ 後鳥羽上皇の意思
◎ 承久の乱における後鳥羽上皇の意思は、「一権門(けんもん)」たる幕府そのものを討滅することにはなく、幕府が軍事的・経済的に支えるべき「一権門」たる「あるべき姿」を取り戻させるために、上皇の要求を拒否する義時を討ち、義村が主導する幕府を模索したものであろう。つまり、その幕府の「あるべき姿」とは、親朝廷派により三寅を支えていく体制と思われるが、胤義が義村に送った書状の内容から考えれば、後鳥羽にはその新たな中心として義村が立つべきだとする思惑が存在したものと考えられる。三浦義村という存在は、朝廷側からそのような評価を受けていたということになろう(「講師論文」)。
◎ しかし、北条政子が論理をすり替えて、「幕府が危機に陥っている」と御家人を説得(※13)した。政子のもとに結集した御家人は、上洛軍の派遣を決め義村は東海道軍の大将のひとりとして従軍、幕府方が圧勝し京都を占領した。胤義は敗死した。
⇒ ここでも、義村は幕府の体制や秩序といった「あるべき姿」を尊重する姿勢を貫いた。
■ 三浦義村と承久の乱の戦後処理
◎ 北条泰時の後見役として、義村が事実上の幕府の代表者の立場で戦後処理を行った。
〇 義村は「関東」(事実上は義時であった)宮中守護の任を命じられる。
⇒ 北条氏と三浦氏との長年の協調関係のなせるわざであったものと考えられる。
〇 隠岐に配流された後鳥羽上皇領が後高倉院に返付(幕府から進上)された。その際の使いを義村が務めた(『公武年代記裏書』)。
〇 後堀河天皇即位に深く関与した(『賀茂旧記』)(※14)。承久の乱後の新たな課題は、新天皇に誰を即位させるかであった。
⇒ 承久の乱後の朝廷と幕府との交渉、なかんずく新天皇の選定とそれにともなう治天の君(※15)の決定という、それまで幕府が経験したことのない困難な事態の対処は事実上義村の手に委ねられていたといえよう(『三浦道寸』真鍋淳哉著 戎光洋出版(以下、「講師著」とする))。そして新たな秩序を義村が創った。
■ 承久の乱後の三浦氏の要職就任
◎ 幕府はそれまで守護を設置していなかった畿内西国の国に守護を任命し、義村は河内・紀伊の守護職に就いた。嫡子泰村は院御厨別当職案主職を獲得、泰村の子箱熊丸(良賢)は天台座主の寵童に就いた。
⇒ 朝廷・寺社の勢力に楔を打ち、三浦氏の存在はさらに大きなものになり、北条氏との連携はさらに強化された。

5.幕府政治における三浦義村
■ 元仁元年(1224)6月、義村の長年の「盟友」北条義時が急死した。伊賀氏(いがし)事件(※16)が発生した(『吾妻鏡』貞応3年(1224)7月17日・18日、閏7月1日条、『吾妻鏡』元仁元年(1224)9月5日条)。
◎ いわゆる「伊賀氏事件」を経て北条泰時が執権となった。
◎ 伊賀氏事件の通説(※16)に対して講師は、「当時の家族制度等から考えれば、通説は不可解」と疑問を呈し、真相が不明と説明した。
◎ 伊賀氏事件において義村は北条政村を守り抜き、伊賀氏討伐という武力衝突を抑止して収めた。
⇒ 幕府内における義村の存在の大きさをうかがわせた。
■ 嘉禄元年(1225)北条政子、大江広元が没した。
⇒ 義村の幕府内での存在がこれまで以上に大きくなった。
■ 嘉禄元年(1225)北条泰時、評定衆(※17)を設置した。
◎ 義村は11人のうちのひとりとして任ぜられ、泰時の補佐役として幕政の中心に参画すようになった。
◎ 三浦氏の所領・官位が大きく拡大した。
〇 義村~相模・河内・紀伊・讃岐・土佐の守護職、筑前宗像社領(福岡県)預職に補任、肥前神埼荘(佐賀県)を知行した。
⇒ 水上交通の掌握、中国大陸との関わりがうかがわれる(横須賀市矢部・清雲寺滝見観音像の存在)。
〇 嫡子泰村~評定衆、若狭守に就く。三男光村は検非違使から受領を受任した。
⇒ 義村の巧みな政治手腕と北条氏との協調路線により三浦氏の繁栄をもたらした。
 
6. 京都政界と三浦義村
■ 義村段階の三浦氏の勢力は一般御家人としての範疇を超える存在と評価された。
◎ 承久の乱の戦後処理における義村の「辣腕」ぶりはその後の京都政界に大きな影響を与えた。
〇 鎌倉殿三寅は嘉禄元年(1225)八歳となり元服し、頼経を名乗った。藤原定家(さだいえ)の日記『明月記』には、頼経の元服にあたり、関東申次(もうしつぎ)(※18)の西園寺公経(きんつね)ら「義村等の存旨」を図りかねているさまが記されている(『明月記』嘉禄元年(1225)10月28日条)。
⇒三寅の元服がいつ、どのように行うのか、とりわけ三寅が源氏に改姓して、頼朝の「家」の後継者になるかどうか、公武間の関心事であった(『三浦一族の研究』高橋秀樹著 吉川弘文館)。この時期、京都から見て「幕府の顔」は決して執権の泰時でなく義村であったことを顕著に示す事例であり、義村の藤原頼経に対する影響力が甚大なものと認識されていたあらわれである。
◎ 王朝側が義村に一種の「怖れ」を抱いていた「噂」
〇 関白に復帰していた藤原道家を、義村が更迭しようとした情報が道家の耳に入った(『明月記』寛喜元年(1229)10月6日条)
〇 義村は「八難六奇(はちなんろっき)の謀略、不可思議(ふかしぎ)の者か」との『明月記』の評価(嘉禄元年(1225)11月19日条)。(※19)
⇒この2件はあくまでも噂にすぎないもであったかもしれない。しかし、最も重要なのは、それが事実であったか否かよりも、『明月記』記主の定家をして、承久の乱後に非常手段を取ってまでも新天皇を即位させた「義村ならばやりかねない」と思わせる部分が存在したという点であろう。こうした義村の朝廷に対する影響力は当時、得宗すら持ちえないものであった。発端は承久の乱の戦後処理で義村の存在が絶大なものであったことを物語っている(「講師著」)。
◎ 三浦氏の官位・官職歴(義村の子息二人が同時に国司、二人が正五位下叙爵)
〇義村 ~極官(※20):駿河の守・従五位上叙爵、〇嫡男泰村 ~ 極官:若狭守・正五位下叙爵、〇泰村次弟光村~極官:能登の守・正五位下叙爵
⇒位階の点からも北条氏なみの扱いを受けていたといっても過言ではない(「講師論文」)。

(おわりに)
講師は講演内容を
■ 延応元年(1239)12月 三浦義村没(『吾妻鏡』延応元年(1239)12月5日条)、翌年正月には北条時房も没した。
二人の死は、後鳥羽上皇の怨霊なせるわざであるとうわさされた(『平戸記』延応2年(1240)正月28日条)。
⇒ このこと自体が承久の乱の際の義村の果たした役割の大きさを意味している。
■ 義村は執権泰時の舅として、幕府宿老(※21)として鎌倉幕府の再形成に大きな役割を果たした。
◎ 京都からは、幕府の顔と認識され、朝廷人事にも影響力を保持した。
◎ 子息を宗教権力に入れた。
⇒ 当時のすべての権門に楔をうち、当時の得宗でも持ちえない影響力を示した。
■ 義村の果たした役割は、幕府・朝廷という中世権門における新体制を構築したことである。
体制や秩序といった「あるべき姿」を尊重し、朝廷をも左右しかねない義村の存在は不可解なものであった。
〇 京都においては「八難六奇の謀略、不可思議の者か」と評価され、関東においては「三浦犬は友をくらふ」程度にしか認識されず、当時の関東御家人には、到底理解不可能な人物であった。
⇒ 単なる一御家人のレベルを超えた大きな存在であった。
とまとめました。

(そして、最後に)
「来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の三浦義村役は俳優の山本耕史が演じます。ドラマの中では義村がどのように描かれるか分かりませんが、この機会に三浦義村は『大した人物』だと感じてもらえると良いと思います」とNHK大河ドラマへの期待感を話されました。
(※NHKのキャステング発表では、「主人公北条義時の盟友・三浦義村、山本耕史・大河ドラマ出演5回」と紹介されたーNHK/HP)。
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(参考1)◆ 公開講座配布資料 「三浦義村と中世国家」 A4判 15頁・15枚(本篇5頁、史料篇10頁)(※以後、「配付資料」とする)。 

(参考2)◆ 本講座は、神奈川県に緊急事態宣言が発令されて新型コロナウイルス感染拡大予防のための生涯学習センターの利用
人数が制限されたもとで開催されました。◆会場は定員150人(利用可能者数72人)の広い集会室であり、参加者は抽選によらず会員、一般希望者全員が参加できました。また、本講座への参加呼びかけのため、事前にチラシ「三浦義村と中世国家」を作成しました。その効果が顕著に認められ、69名の記録的な多数の参加者がありました。◆ 新型コロナウイルス感染防止対策の基本(マスクの着用、手指の消毒、検温、席の間隔を1m以上確保、会場内の換気等)を徹底して開催されました。

(参考3)◆(※1)『愚管抄』:1.鎌倉初期になった日本の通史。慈円作。七巻。2.保元の乱後の武者の世をえがき、記述は詳細・具体的・正確を期し他書に求められぬ秘事や伝えも多く史料として重要・・(『国史大辞典第四巻』多賀宗隼人執筆、昭和63年)。 ◆(※2)『明月記』:藤原定家の日記。現存の収録記事は治承4年(1180)2月、定家19歳から嘉禎元年(1235)12月、74歳まで。定家の内部、その時代相としての宮廷・公家社会の様子等を伝える歴史資料として貴重(『国史・13巻』有吉 保執筆、平成4年)。◆(※3)『吾妻鏡』:鎌倉幕府の創始期から中期までの事績を、幕府自身で編纂した歴史書。記事は治承4年(1180)に始まり、文永3年(1266)までの編年体。一世紀に近い年月を扱った大編纂物である・・・鎌倉幕府の研究、武家社会の解明に欠くことができない(『國史・1巻』益田 宗執筆、昭和54年、)。◆(※4)『古今著聞集』:中世の説話集。橘成季著。20巻。建長6年(1254)成立。編著の姿勢はできるだけ典拠に基づき忠実に実録しようとする態度が一貫している。中世貴族社会の実態を具体的にとらえている(『国史・5巻』永積安明執筆、昭和60年)。◆(※5)『平戸記』:1.鎌倉中期の公卿平経高の日記。公家卿についてばかりでなく、武家に関しても初めて知られる史実が多い(北条泰時死去の前後の状況など)。学識にとみ希有の論客でもあった経高の人物を反映して、その文章は論理性に富んでいる(『国史・12巻』龍福義友執筆、平成3年)。2.『平戸記』は当時の政情・朝儀などを知る重要史料である(『国史・8巻』元木泰雄執筆、昭和62年)。◆(※6)奥州合戦(奥州征伐):源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして、中央政府がはじめて本州のさいはてまで統一した軍事行動。鎌倉幕府の支配が完成した歴史的なこと(『国史・2巻』高橋富雄執筆、昭和61年)。◆(※7)侍所別当職:鎌倉幕府では、御家人の統制および検断を担当する職務機関。治承4年(1180)11月、和田義盛を侍所別当に補したことに始まり、ついで梶原景時をその次官たる所司に任じて機構を整えて、幕府の重要な機関となった。職掌は非違の検断、罪人の決断、戦時には軍奉行となり御家人を統轄した。幕府における別当は地位が高く、御家人の総元締めというべき要職であった。建保元年(1213)一族とともに滅亡した和田義盛に代わって執権北条義時が兼務したため、以後執権の兼職とされた(『国史・6巻』二木謙一執筆、昭和60年)。◆(※8)侍所所司:1.侍所次官 2.建保6年(1218)北条泰時が別当に補された際、同時に四人が所司に任ぜられ、三浦泰村は御家人の奉行となった(※7に同じ)。◆(※9)義村を事件の黒幕とする説:永井路子『炎環』(光風社、1964年)・石井進『鎌倉幕府』(中央公論社、1965年)(『三浦一族の研究』高橋秀樹著、2016年 吉川弘文館)。◆(※10)受領(ずりょう):平安時代以降、任国に赴いた国司の最高責任者をいう。守・権守・介の場合が多い(『国史・8巻』吉岡真之執筆、昭和62年)。◆(※11)関東御分国:鎌倉幕府の首長である将軍家=鎌倉殿の知行国。将軍家は知行国主として一族や有力な御家人を朝廷に推挙して名国司とし、目代を派遣して国衙を支配し、国衙領からの貢租を収入とすることができた。駿河は元暦元年(1184)6月よりおそらく鎌倉幕府滅亡まで(『国史・3巻』石井 進執筆、昭和58年)。◆(※12)鎌倉殿:鎌倉幕府はその首長が従者を統率して、諸国(日本国)守護、すなわち国家的な軍事・警察を担当する組織であり、私的な主従結合と、公的な諸国守護との統一として捉えられる。その場合、前者の主従結合の面から見て、従者である御家人に対しする主君が鎌倉殿である。一方、鎌倉殿は朝廷から日本国総追捕使・総地頭の職務を命じられ、諸国守護にあたっている。征夷大将軍は発生的には日本国総追捕使・総地頭として鎌倉殿に与えられた朝官にすぎない(『国史・3巻』上横手雅敬執筆、昭和60年)。◆(※13)北条政子が御家人を説得:1.(『吾妻鏡』承久3年(1221)5月19日条)、2.「朝廷(+鎌倉御家人)対義時であったはずの戦争は後鳥羽上皇近臣対鎌倉幕府の図式に転換してしまった(『三浦一族の中世』高橋秀樹著、2015年、吉川弘文館)。
◆(※14)『賀茂旧記』~鎌倉後期の賀茂神社神官・賀茂経久(つねひさ)が記した(「講師著)。◆(※15)治天の君:院政を執り行う上皇(院)。政治の実権を握っている上皇について、その時の天皇でないという事情を背景としてこの語が用いられていると思われる(『国史・9巻』後藤四郎執筆、昭和63年)。◆(※16)伊賀氏事件(伊賀氏の変):1.元仁元年(1224)鎌倉幕府の執権北条義時の急死後、執権の後任、ひいては幕府の実権の争奪をめぐって起こった紛争(『国史・1巻』石井 進執筆、昭和61年)2.通説:北条義時の後妻伊賀氏が、兄弟の政所執事伊賀宗光と図って義時の嫡子泰時でなく、実子の政村を執権とし、女婿の藤原実雅を将軍に擁立すべく陰謀を企て、その実現を政村の烏帽子親三浦義村に託したとされる事件(「配付資料」)。◆(※17)評定衆:鎌倉・室町両幕府の職名。嘉禄元年(1225)北条政子が没すると、執権北条泰時は中原師員ら(三浦義村を含む11人)を評定衆に任じ、同年12月には執権泰時・連署時房、および評定衆による評議始めが行われた。評定衆の設置によって、それまで審議機関にすぎなかった「評定」は裁断権を持つようになり、政所や問注所をもその下に従え、幕政の中枢となった(『国史・11巻』上横手雅敬執筆、平成2年)。◆(※18)関東申次(もうしつぎ):公家および武家に置かれた職名。鎌倉幕府でも将軍への取次役を申次と称した(『国史・13巻』二木謙一執筆、平成4年)。◆(※19)八難六奇の謀略:『明月記』の記主・藤原定家は義村が、後堀河天皇の後継が定まらない状況のなかで、交野宮(かたのみや)と称される高倉天皇の孫の母方叔父のあたる源通時と北条義時の娘とを結びつけ(婚姻を仲介)ようとする義村の策謀を中国前漢の劉邦に仕えた軍略家張良(八難)・陳平(六奇)に比する謀略の持ち主であるとし、義時の娘と通時との婚姻を皇位継承に対する布石と解釈しているわけである(講師著)。◆(※20)極官(ごっかん、きょっかん):最高の官位。一番上の高官(『日本国語大辞典・第二版第5巻』2001年 小学館)。◆(※21)宿老:武家の重臣。鎌倉幕府の評定衆や引付衆など幕府や大名の意思決定に参画した合議機関の構成員(1.前同『日本国語大辞典』、2.『吾妻鏡』治承4年(1180)11月4日条に「(千葉)常胤・(上総)広常・(三浦)義澄・(土肥)実平以下の宿老・・・」と記載されている)。

(注)『国史大辞典』の略記~上記文中の 『国史・13巻』平成4年『国史大辞典第13巻』吉川弘文館の略

>>当日のチラシをDL  三浦義村と中世国家 

      

<「歴史散策会」> 

 

第152回「逗子・長柄(ながえ)桜山古墳散策」

2021年(令和3年)11月15日(月) 09:30 JR大船駅南口改札・ルミネ入口前 集合
参加者:16名 (会員:13名 一般:3名)

案内人:藤 田 武 氏(玉縄歴史の会・世話人(歴史散策会担当))
コース:JR大船駅南口改札(9時30分) → JR逗子駅 → JR逗子駅駅前バス乗り場4番 → 葉桜バス停 → 第1号古墳 → 第2号古墳 → 蘆花記念公園(昼食) → 富士見町バス停解散  (解散13時40分)

【解説】
長柄桜山古墳群は、東京湾、相模湾を眺望できる三浦半島基部西岸の丘陵尾根筋に立地する2基の前方後円墳で、1999年3月に地元の考古学愛好家によって第1号墳が発見されました。
 古墳の試掘、測量、範囲確認調査等が実施された結果、神奈川県内最大級の規模を有する前方後円墳(1号墳全長90m、2号墳全長88m)であることが明らかになり、2002年国指定を受けました。出土した埴輪片の年代観から4世紀半ばから後半に築造された前期古墳であることが確定し、東海地方から連続して畿内政権の勢力拡大を示唆する古墳として注目されています。
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(参考)第152回「逗子・長柄(ながえ)桜山古墳散策」は、2021年(令和3年)7月4日(日)開催の玉縄歴史の会 第275回公開講座「前方後円墳 長柄桜山古墳を考える」講師:柏木善治氏(公益財団法人かながわ考古学財団理事 事務局次長)の関連企画です。

 

第151回「現存鶴岡八幡宮探求」

2021年(令和3年)10月18日(月) 09:30 JR大船駅南口改札・ルミネ入口前 集合
参加者:19名 (会員:17名、一般:2名)

案内人:児 島 晃 氏(鎌倉歴史フォーラム主宰)
コース:JR大船駅南口改札(9時30分) → JR鎌倉駅 → 若宮大路(*1) → 段葛(*2) → 鶴岡八幡宮三の鳥居 → 赤橋 → 源平池(*3) → 旗上弁天社 → 馬場(流鏑馬が行われる) → 白幡神社(*4) → 若宮(*5) → 本宮(*6) → 旧大イチョウ前で解散  (解散12時20分)

【説明】
(*1) 若宮大路:若宮を内裏に見立て、京都の朱雀大路になぞらえて造成。
(*2) 段葛:段は壇、葛は葛石。若宮大路の中央に土壇の上に葛石を積んでつくった一段高い道。
(*3) 源平池:東に三島、西に四島。三は産=源氏、四は死=平氏
(*4) 白幡神社:祭神は頼朝と実朝。明治18年本宮隣より移設、荘厳な雰囲気の社殿。
(*5) 若宮:頼朝創建、四度の火災、現在の建物は1626年(寛永3年)徳川秀忠が命じて建設。
(*6) 本宮:頼朝創建の若宮・五重塔など1191年焼失、1191年11月上宮創建。
   その後四度炎上。1828年(文政11年)水野忠成奉行で再建
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(参考1)◆歴史散策会配付資料「現存鶴岡八幡宮探索」 児島晃氏執筆―A4・4頁(4枚)
(参考2)◆「現存鶴岡八幡宮探索」は、2020年(令和2年)2月2日(日)開催の玉縄歴史の会 第267回公開講座「武士(もののふ)たちの精神的砦」講師・児島 晃 氏(鎌倉歴史フォーラム主宰)の関連企画です。

 

第150回「江の島散策」

2021年(令和3年)9月13日(月) 09:30 JR大船駅南口改札・ルミネ入口前 集合
参加者:12名 (会員:11名 一般:1名)

案内人: 増 川 勇次郎 氏・藤 田 武 氏(玉縄歴史の会世話人(歴史散策担当)
コース:JR大船駅南口改札(9時30分) → 湘南モノレール大船駅 → 湘南モノレール江の島駅 → 江の島弁財天道標1 → 常立寺 → 西行戻り松 → 洲鼻(通り) → 江の島弁財天道標2 → 弁天橋(※1) → 青銅の鳥居(※2) → 旧岩本院(岩本楼)(※3) → 福石 → 辺津宮(旧下宮)・奉安殿 → 中津宮(旧上宮) → 江の島サムエル・コッキング苑・食事 → 奥津宮(旧本宮旅所) → 龍宮(わだつみのみや)  → 杉山検校の墓→ 江の島バス停 (解散13時40分)
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(参考1)◆ガイド資料~「2021年9月(第150回)玉縄歴史の会・歴史散策会『江の島散策』(9月13日)」
―A4判 4頁・4枚(玉縄歴史の会・歴史散策会担当作成)

(参考2)「江の島散策」は、2020年(令和2年)11月8日(日)、2021年(令和3年)8月1日(日)開催の玉縄歴史の会・公開講座「江の島の歴史(1)、(2)」(講師・伊藤一美氏(鎌倉考古学研究所・理事))の関連企画です。

(参考3)◆(※1)弁天橋:鎌倉幕府によって編纂された「吾妻鏡」には、干潮時、片瀬の浜から江の島まで歩いて渡ったという記載がある。江戸時代には、幕府高官、歌舞伎役者、職人、火消し、楼主や魚河岸の人々など幅広い階層の参詣者が、干潮時に現れた陸路を歩き、江の島を訪れていたそうです。明治時代になって本橋が架けられ、現在の橋は、1964年に開催された東京オリンピックのヨット競技に合わせて完成したものです(ガイド資料)。◆(※2)青銅の鳥居:1747年(延享4年)に創建、多くの寄進者によって1821年(文政4年)に再建され、その名が柱に刻まれている。「江の島道」においては三の鳥居で、一の鳥居は遊行寺前、二の鳥居は洲鼻通りにありましたが、現存するのはこの三の鳥居のみです。正面の額「江島大明神」は、鎌倉時代の文永の役(1274年・蒙古襲来)に勝利した記念に、後宇多天皇から贈られた勅額の写しとなります(前同)。◆(※3)旧岩本院(岩本楼):中世、江の島には弁財天を本尊とした「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の三宮があり、それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理に当たっていた。この三坊の中で、「岩本坊」は「岩屋本宮」及び弁財天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代には院号の使用を許可され「岩本院」と称し、江の島全体の総別当であった。勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。
1868年(慶応4年)明治政府の神仏習合禁止令で宿屋となった。現在も旅館・岩本楼として存続している。

 
   

 

第276回 公開講座「江の島の歴史(2)~江の島と後北条氏~」

2021年(令和3年)8月1日(日)  13:30~15:32
玉縄学習センター分室・第3集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:23名 (会員のみ)

講師:伊 藤 一 美 氏 (鎌倉考古学研究所 理事)      

 (はじめに)
■ 本講座は、講師による「江の島の歴史」シリーズの「中世の江の島信仰」(※1)に続く2回目の講座です。
現存する中世文書(もんじょ)等を読み解きながら、戦国・後北条氏時代の江の島の支配・保護関係、住民の意思等について各文書の背景を講演しました。
■ 講師は、「江の島と玉縄・大船地域は地理的に海、柏尾川を通じて切っても切れない関係にある。2回目は玉縄・大船地域を支配した後北条氏と江の島の関係を島自身が独立する人の動きを前提として、いつごろから出来たのか、見ていきます」と玉縄北条氏を研究の対象としている玉縄歴史の会にとっては、江の島の歴史は重要なテーマであることを前置きして本論に入りました。

(伊勢宗瑞早雲庵と江の島)
■ 講師は、前半の1時間を使い、伊勢宗瑞の出身、伊豆から相模への東進、永正9年(1512)玉縄要害の取りたて(※2)、武蔵進出の足場を設置、鎌倉地区を足場に三浦半島の三浦同寸、房総里見氏への攻撃開始準備、そして死去するまでの生涯を説明しました。特に、多様な説があった出身、年齢については、現在歴史学での確定説である備中伊勢盛定次男で伊勢新九郎盛時の発展した姿、64歳ではないかと述べました。
■ 宗瑞と江の島との関係では、宗瑞が伊豆から相模国へ出陣途中、江の島岩本坊(住人)からの禁制要請を受け、永正元年(1504)9月6日に江の島に乱暴を停止(ちょうじ)する禁制(きんぜい)(※3)を出した。同禁制は特大の独特な花押(※4)の文書として有名で、伊勢宗瑞による相模国最初の文書である。講師は「大きな花押に意味が込められている。宗瑞がこの時期、江の島あたりにも勢力を伸ばしていた片鱗が見られる。また、地域住民は自分たちの生活を守ってくれる人がやっと江の島に入ってきて、禁制を早くもらいたいと要請した背景が分かる重要な文書です」とその意義を強調しました。

(後北条氏の江の島保護・直轄支配)
■ 宗瑞の禁制以後、江の島は後北条氏の傘下に取り込まれていった。北条氏第二代当主・氏綱、第三代当主・氏康たちが江の島を保護し、後々、古河公方の直轄領が北条氏に接収されて八王子城主北条氏照の所管となり、氏照が江の島を直接支配するようになった。また、江の島は敵味方の信仰・戦勝祈願の対象となり、現世利益のそのものを得るものに変わっていく流れを、講師は次の文書を読み解きながら説明しました。
《氏綱と江の島》 
・享禄4年(1531)5月17日北条氏綱判物(岩本院文書)(※5)~「江嶋上の坊」が後を継ぐ者もなくなったので北条氏綱が円光坊に管理を許可した。
《北条氏康と江の島》 
(1) 降参者への対応と仲介
・天文13年(1544)6月25日成田長泰書状写し(相州文書)~ 敵方であった成田長泰が降参し北条氏康に付く転換をした。「降参の作法」として江の島参詣をした際、種々の配慮を受けたに江島下之坊に対し謝意を示した書状の写し。 
(2) 難破船の宝物寄進 
・巳酉(天文18年(1549))7月23日北条氏康判物(大坪文書)~ 天文18年4月の大地震で漂着した唐船の積み荷が「寄船沙汰」(※6)として、氏康が江の島上下宮に白糸二十欣を寄進し、岩本坊に用途を指示した判物。
《北条氏と江の島住人の位置―北条氏照の書出》
・天正7年(1579)8月12日北条氏照書出(岩本院文書)~ 北条氏照による江の島岩本坊とその傘下にある住人たちの独自な動きへの五カ条からなる規制策。氏照は本城主氏政の直轄地支配の代理者として独自の支配を目指そうとしていたことを物語る文書である。
* 北条氏照の書出五カ条の概要
一、不入(ふにゅう)権(※7)の設定。(趣旨~江の島の住人の権利を認め、小田原本城(北条氏康)の印判で税をかけるほかは不入の地とする。「郡代」(※8)であっても、恣意的な公事の賦課徴発は禁止。虎朱印の重み、当主の江の島再興権限を行使した)
一、小田原当主の印判状が賦課徴収の権限で、奉行人らの恣意的な賦課・徴収行為を排除。
一、「留浦」(※9)であるので他領の百姓猟師(漁師)がミル、ヒジキを取れば首を切る。(趣旨~江の島住人の意思による要請を受けて留浦を設定した)
一、江の島住人の島外の人への仕官の禁止、里彼官(さとびがん)は「御法度」(※10)である。
一、江の島住人の他所への移転の禁止。
* 同書出の背景
江の島の住人は単なる漁師ではない。船を所有し、舟子を従え、地域の豪族的存在とみてよい。「里被官」として島外の主人に仕えれば、いつ敵になるか不安定な人的集団(海賊衆)とみて、島住人の移動、他所からの移動・侵入を厳しく禁じた。北条氏以外の主人はいないことを示している。書出の通告先は岩本坊であり、岩本坊が島をとりまとめる責任者と認められていたこと、また、江の島は岩本坊を通じ、着実に戦国大名北条氏に取り込まれていったのである(※11)。
《小田原本城主付きの御局の手紙》
・北条氏康室局書状 ~ 元亀2年正月の駿河深沢城の出陣に伴う戦勝祈願を江の島岩本坊に依頼したもの。
武田方と北条氏との大決戦で、北条方が押し詰められ苦戦となっている状況に、神に祈願すれば大勝利を収められると、かつて氏康が岩本坊に祈願を依頼し大勝利をした経験があり、こうした先例を踏まえたものである。

(むすびに)
講師はむすびに、「☆江の島に関する資料は一種独特の特色があり(※12)、現在、遊行寺宝物館で「一遍上人縁起絵」「江嶋縁起」の特別展が開催されているので是非観覧していただきたい<注~1>。☆江の島は、玉縄北条氏の領内でありながら、小田原本城・北条氏の直轄地という特別な地域です。2回の講座の詳しい内容の本<注~2-①>を書きました。また、石塚さんも江の島に関する中世文書の本<注~2-②>を出されましたので、機会がありましたら是非読んでください」と述べ、本講座と関連する展覧会と図書の推薦を行いました。

<注> ~1 展覧会・・・「特別展 江の島」遊行寺宝物館 令和3年7月17日(土)から10月4日(月)まで  
~2 図書 ・・・① 伊藤 一美著 『藤沢市史ブックレット10 江の島、神の島から人の島へ』 2019年3
月 藤沢市文書館(もんじょかん)発行  (※以後、「講師著」とする)
② 石塚 勝著編 『歴史をひもとく藤沢の資料 別巻 中世文書』 2021年3月 藤沢市文書館編集発行 
(※編集・執筆・作図~石塚 勝(関東学院大学講師)(※以後、「石塚著編」とする)

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(参考1)◆ 公開講座配布資料 「江の島の歴史(2)~ 江の島と後北条氏 ~」 A4判 5ページ(5枚)(※以後、「配付資料」とする) 

(参考2)◆ 本講座は、鎌倉市が「まん延防止等特別措置」の措置区域に指定され、「新型コロナウイルス感染拡大予防のための
生涯学習センター利用人数制限」のもとで開催されました。◆ 会場は定員56人(利用可能者数28人)の集会室であり、参加者は
会員のみ(希望者事前募集・多数のため抽選を実施)でした。◆ 新型コロナウイルス感染防止対策の基本(マスクの着用、手指の
消毒、検温、席の間隔を1m以上確保、会場内の換気等)を徹底して開催されました。 

(参考3)◆(※1)2020年(令和2年)11月8日(日)玉縄歴史の会・第270回公開講座。◆(※2)「取り立てた」とは玉縄城は元々大きなものではなかったとの意味が込められている。現在の清泉女学院の地であったという証拠もない(講師講座)。
◆(※3)① 禁制~古文書の形式の一つ。掟、禁令などを庶人に告知するため、駒形の板に書き掲示した高札のうち、主として簡単な禁止的命令を載せたものをいう(『国史大辞典第4巻』・勝俣鎮夫執筆 昭和52年、吉川弘文館)。②伊勢宗瑞禁制~
(岩本院文書)<原文>~江嶋  禁制 右、当手軍勢甲乙人等乱暴狼藉之事、堅令停止了、若有違犯族者、速可処罪科者也、仍如件 永正元甲子九月六日(花押)、<大意>~味方の軍勢や一般の者らが(江の島に対して)略奪や非道を働くことは、厳重にやめさせた。もし違犯者がいれば、速やかに処罰すものである(①配付資料 ②石塚著編)、<花押に注目>~特大の独特な花押形。かつて偽文書(ぎもんじょ)とされることもあったが千葉県茂原市茂原寺(妙光寺)(永正13年11月)も同様花押形である(配付資料、石塚著編)。◆(※4)自署の代わりに書く記号。個人の表徴として文書証拠能力を与える。平安末期より実名の下に花押が書かれるようになった。「宗瑞禁制」には、実名の記載はなく特大の花押が書かれている(『国史大辞典第3巻』・皆川完一執筆 昭和58年、吉川弘文館、講師著)。◆(※5)①判物(はんもの)~差出人が花押(判)を加えたものの意(石塚著編)。②文書大意~江島上之坊が断絶したので、かの坊跡のことは、しっかりと庇護しなければならない(石塚著編)。◆(※6)台風等で流れ着いた船の積み荷は地域領主の取り分となる慣行儀礼(講師講座)。◆(※7)その地が旧来負担していた役を北条氏が虎朱印状で賦課する以外は、誰も諸役を命ずることができず、新たな役が賦課されない特権(石塚著編)。◆(※8)北条領国で郡ごとに税の徴収を担った北条氏の一族・重臣。江の島の属する相模東郡の郡代は玉縄北条氏(講師講座、石塚著編)。◆(※9)小田原北条氏が許可した者以外は勝手に入ってはいけない措置。禁漁区。立ち入り禁止の浦(講師講座、石塚著編)。◆(※10)居住地にありながら主君に仕える者。小田原北条氏以外を主とすることは禁止事項である(講師講義、石塚著編)。◆(※11)①講師講座、②講師著、③『図説 ふじさわの歴史~講師執筆―1戦国・後北条氏の時代―戦国時代の江の島~』1991年 藤沢市文書館。◆(※12)講師著の「あとがき」に、これを執筆するにあたり「・・・江の島に関わる古文書類、特に岩本楼所蔵の史料を中心として、検討する機会を得たことはありがたかった。さらに遊行寺宝物館主催で特別展『江嶋縁起』が二〇一八年一〇月七日から行われ、江島神社、岩本楼が所蔵される「江島縁起」三本が一堂に公開されたことも、その展示内容の充実とともに眼を見張る思いであった。この感動がさめないうちに、ぜひともまとめあげたいと思った。」と書いている。

 
 
「江の島~『神が創り、そして人の島になった』(講師著)
(*名勝・史蹟、*ToKyo2020五輪セーリング競技会場決定)―2020.11撮影」

 

第275回 公開講座「前方後円墳 長柄桜山古墳を考える」

2021年(令和3年)7月4日(日)  13:30~15:35
玉縄学習センター分室・第3集会室 (たまなわ交流センター2階)
参加者:24名 (会員のみ)

※講師:柏 木  善 治 氏 (公益財団法人かながわ考古学財団理事 事務局次長)  
(講演要旨)
 1999年3月、神奈川県逗子市桜山の東京湾、相模湾を眺望できる三浦半島基部西岸の丘陵尾根筋(100m~120m)に立地する2基の前方後円墳が民間人によって発見された。この場所は三浦郡葉山町長柄にあることから「長柄桜山古墳群」と名付けられ、古墳の試掘、測量、範囲確認調査等が実施されたその成果から神奈川県内最大級の規模を有する前方後円墳であることが明らかになり、2002年に国史跡の指定を受けた。出土した埴輪片の年代観から4世紀半ばから後半に築造された前期古墳であることが確定し、東海地方から連続して畿内政権の勢力拡大を示唆する古墳として注目される。第1号墳は、墳長91.3m、前方部幅33.0m、後円部径52.4m、同高さ7.8m。後円部3段、前方部2段築成で円筒埴輪・壺型埴輪を備えている。第1号の西側500mの相模湾・江の島・富士山眺望できる位置にあり、墳丘傾斜部は未調査のため段築の有無は未確認だが1号機には見られない葺石が存在する。造営の背景には畿内地方と関東以北を結ぶ海上交通との関係が推定されている。
 桜山古墳に配置された埴輪は、底部に孔のある壺型埴輪、円筒埴輪の二種類あるが、その作りは壺壁が厚いことから現地で生産された可能性があり、時期的には古墳前記後半で、主として九州地方と関東地方に多い製品である。
同じような壺型埴輪は海老名市の社家宇治山遺跡、秋葉山古墳群の2,3号基、山梨県の甲斐銚子塚古墳、愛知県犬山市の青塚古墳、宮城県名取市の雷神山古墳からも出土している。
 これまで巨大前方後円墳は、被葬者はその地方の首長で、大きな経済基盤、すなわち米等の生産力を持って。その支配権を安定させる生産力(水田経営)の発展を意味する象徴であったと説かれていた。しかしこれにそぐわない、広大な沖積地と河川、可耕地を伴わない海浜部にある前方後円墳は古くからその存在が知られていながらも、総合的な説明はなされてこなかった。いったい長柄桜山古墳とはどういうものなのか。
 これを解くことから「海浜型前方後円墳」という切り口でこれに臨んだ。長柄桜山古墳こそ、海浜型前方後円墳を代表するものだからである。
 そこで海浜型前方後円墳の定義は、第一、各地域のなかで最大級であること。第二、偏在性をもって前方後円墳が築造されているものが多い。第三、首長墓としての連続性が乏しいものが多い。第四、海から見えるような交通の要衝に立地する、とした。
 同じ神奈川県にある海浜型前方後円墳として、平塚の真土大塚山古墳、川崎市の夢見ケ崎公園の近くの加瀬白山古墳があるが、これらの古墳から副葬品として三角縁神獣鏡が出土している。この鏡は全国で約500枚近く出土しているが、2つの古墳と桜山古墳の類似性から桜山古墳からも発掘によって三角縁神獣鏡が出土する可能性も考えられる。
 ここで全国の海浜型前方後円墳を見てみると、南は鹿児島県志布志湾の横瀬古墳から北の宮城県名取市にある雷神山古墳まで80基近く分布している。横瀬古墳からは菱形の線刻のある円筒埴輪や初期須恵器の破片が出土している。宮崎市に流れる大淀川右岸の丘陵に位置する生目古墳群の5号墓からは九州地方に多い壺型埴輪が、日向灘に面した宮崎平の持田(もった)古墳群の24号墳からは画文帯神獣鏡、銅鈴、26号古墳からは朝鮮半島からの舶載品である金銅製環頭太刀三葉式柄頭が出土している。中部地方では愛知県のあゆち潟(名古屋市)にある断夫山古墳の大型円筒埴輪、回転ヨコハケ・底部回転ケズリ・底部ヒモズレ痕・底部ヘラギリ痕のある尾張独自の「猿投型円筒埴輪」が出土している。静岡県磐田市の磐田原台地に築かれた松林山古墳の豊富な副葬品の鏡群(内行花文鏡・三角縁二神二獣鏡・四獣形鏡)や巴型銅器、スイジ貝製釧、巴型銅器、銅鏃・鉄鏃、斧頭、藤製鞆等がある。磐田原台地の真下は、現在は水田地帯であるが、当時は今乃浦という潟であった。ちなみにスイジ貝製腕輪(釧)は、さらに駿河から陸路で北上し山梨県中道町の甲斐銚子塚古墳、さらに長野県須坂市にある積石塚の鎧塚にも運ばれている。
 同じ台地上に周壕をもつ全長101mの大型前方後円墳の堂山古墳があり、1892年(明治25年)ころ、後円部中央から、田氏作銘神人竜虎画像鏡、位至三公鏡など銅鏡三面をはじめ、勾玉、管玉、太刀や金銅製帯金具(舶載品)などが出土した。後円部墳頂から発掘された鞆形埴輪は直弧文をきざみ、形象埴輪中の優品として知られている。今乃浦周辺では四世紀後半~五世紀前半にかけて大型前方後円墳の築造が卓越するが、それ以降の継続性は薄い。茨木県大洗町の太平洋を見渡す丘陵上に築造された日下ケ塚古墳(鏡塚古墳)は全長105mという大古墳で、葺石は認められないが、墳丘には、関東地方でも最古とおもわれる大型の円筒埴輪がめぐっており、墳丘の東側裾部には周隍の痕跡が認められる。埋葬施設は粘土郭で、長さ8.95m、幅3.5mを測り、埋葬当時は10メートルをこえていたと推定される。副葬品は鏡2面、玉類、石釧2,滑石性模造品46(鏨、斧、刀子,鎌、紡錘車、ヤリガンナ、鋤、鑿、釧など)その他直刀、鉄器(ヤリガンナ・刀子・鎌)、竪櫛10枚がそれぞれ発見された。
ここで、海浜型前方後円墳の時代を東アジア情勢からみてみると、朝鮮半島は三国時代で、高句麗・百済・新羅が覇を争っていた時代でもある。中国吉林省集安市にある高句麗広開土王(好太王)の碑文に西暦391年に倭が百済と新羅を破り臣民としたとあり、399年には倭人が新羅に進入し、新羅は高句麗に支援を要請し、翌年の400年に高句麗が5万の軍勢を送り、新羅の都から倭人を追い払ったと書かれている。
しかし404年には帯方郡まで侵入した倭を高句麗が打破したと記述されている。ここでこの倭を日本列島の海浜型前方後円墳を築造した首長層だとみることもできる。この首長層ならば玄界灘を自由に渡って新羅等を攻めることが出来ると考えられるからである。
群馬県の榛名山東南麓の三ツ寺1遺跡は日本で初めて発見された5世紀後半の豪族の館跡である。近くには100メートルクラスの3個の前方後円墳のある保渡田古墳群があり、上毛野を代表する王の館と考えられる。遺跡復元模型の館は堀にかこまれており、古墳と同じような張出部が2つあり、金属加工工房と祭祀の舞台と考えられている。屋敷内には杉巨木を刳り抜いた井戸枠が発見され、祭祀用の井戸だとかんがえられる。兵庫県加古川市の海浜型前方後円墳である行者塚古墳にも、古墳のくびれ部にある造出部で古墳祭祀が行われた跡がある。古墳時代前期から中期後半にかけて古墳祭祀儀礼は、古墳墳頂部からくびれ部の造出部、古墳の周溝部へと変化していった。その変化の過程は岐阜県大垣市の昼飯大塚古墳にみられる。行者塚古墳には、中に家型埴輪のある囲型埴輪があり、同じものは奈良県広陵町の馬見古墳群の代表的な前方後円墳である巣山古墳にあり、同じく海浜型前方後円墳の代表である三重県松阪市の宝塚1号墳にも存在し、しかも2つの古墳から日本で代表的な準構造船(葬船)の船形埴輪が出土している。宝塚1号墳は、全長111m、後円部径75m、墳頂部高さ10m、前方部幅66m、高さ7mである。3段の葺石をともなう斜面をもつ。造出部の周辺からは船形埴輪を含め、100を超える埴輪類が当時の埋葬されたままの状態でみつかった。船形埴輪に象徴された宝塚1号墳の埴輪群は、家形、蓋形、囲形、盾形などの形象埴輪の形状や大きさなど、伊勢地方の埴輪群と比べて、すべての点で畿内的色彩の強い埴輪である。小石敷きの通路と門柱状に立てられる柱状埴輪、その脇に据えられる浄水施設を付した埴輪と家、特にこの導水施設を表現した埴輪については、その例が増加しつつある。兵庫県行者塚古墳・大阪府狼塚古墳・同野中宮山古墳の他、大和ではナガレ山古墳・五條猫塚古墳の例がある。導水施設については南郷大東遺跡など実物の検出例があり、集落でおこなわれた「流水祭祀」の遺構として意義づけることができる。「流水祭祀」は飛鳥時代には、亀形石造物に見られるように宮殿付設の施設として完成するもので、古代庭園の淵源としての意味がある。
 最後に海と古墳との関係を考えてみると、宝塚1号墳の船形埴輪は、多数の威儀具をそこに積載した「王者の船」である。つまり、伊勢を拠点とした海の王者の象徴であった。玄界灘の沖ノ島の祭祀遺跡から発見された多くの鏡などの出土品はほとんど日本列島の大型前方後円墳の出土品と共通するものであった。長柄桜山古墳をはじめ、海浜型前方後円墳の被葬者が日本列島沿岸を航行する海の王者であることがわかる。
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(参考1)■ 公開講座配布資料 「前方後円墳 長柄桜山古墳を考える」 A4判 10ページ(10枚) ■ 映像資料(パワーポイント作成) 画像数79(表題画像を含む)
(参考2)◆ 本講座は、鎌倉市の「新型コロナウイルス感染拡大予防のための生涯学習センター利用人数制限」のもとで開催され
ました。◆ 会場は定員56人(利用可能者数28人)の集会室であり、参加者は会員のみ(希望者事前募集・多数のため抽選を実
施)でした。◆ 新型コロナウイルス感染防止対策の基本(マスクの着用、手指の消毒、検温、席の間隔を1m以上確保、会場内の換気等)を徹底して開催されました。

 

>>当日のチラシをDL  前方後円墳 長柄桜山古墳 
 

第274回 公開講座「玉縄の廃寺について」

2021年(令和3年)6月6日(日)  13:30~14:40
玉縄学習センター第1集会室(玉縄行政センター1階)
参加者:24名 (会員~23名 一般~1名)

※講師:関 根  肇 氏 (玉縄歴史の会 会長)  
(講演要旨)
 「鎌倉廃寺事典」には、玉縄地域の廃寺として、3カ寺が記録されている。その事典の中で「小林寺しょうりんじ」は、「新編相模国風土記稿(※1)」を引用して、浄土宗で貞宗寺の末寺、開基は小林若狭としている。講師は、小林若狭は真言宗「玉泉寺」の開基であり、浄土宗と真言宗の二つの宗派の寺を建てたのか疑問を持つ。貞宗寺に保存されていた位牌は、「正林寺 しょうりんじ」と書かれており、「正林寺」は「少林寺」の向いの山際にあったらしいことが判った。別々にあった浄土宗「正林寺」と真言宗「小林寺」が、廃寺になった後「正林寺」の墓地の改葬で「小林寺」の墓地に合葬され、その墓地に浄土宗の回国僧「徳本(※2)」の碑が建てられていた為、「小林寺」が浄土宗の寺と間違われたと思われる。その後名称だけ残されたと推測する。その他の廃寺については、状況の変化で遷座したり(本在寺、妙法寺)、武力に屈して廃寺となり他所に遷座したり(長慶寺)した。

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(参考1)◆ 公開講座配付資料「玉縄の廃寺」A4判14枚(本文7頁・図7枚)、A3判1枚(図1枚)
 映像化資料(写真)。

(参考2)◆ 会場は定員54人(コロナ下の利用可能者数28人)、参加者は抽選により原則会員のみ、

(参考3)◆(※1)相模九郡の地理誌で天保元年(1830)着手、12年(1841)脱稿。江戸時代の鎌倉を知る貴重な資料。
     ◆(※2)文化11年(1814)頃から江戸市中で大評判となった浄土宗の僧で、芝・増上寺に籍を置き、
       関東一円を中心に浄土教を布教していた。

   

 

 

第273回 公開講座「海を渡った鎌倉・玉縄のユリ~明治・大正期のユリ球根の栽培と輸出、そして今」

2021年(令和3年)5月9日(日)  13:30~15:15
玉縄学習センター第4集会室(玉縄行政センター3階)
参加者:44名 (会員~22名 一般~22名)

講師:入 江 真 理 子 氏 (コソガイ(鎌倉子育てガイド)/鎌倉玉縄ユリ・プロジェクト主宰)      

 (講演要旨)
◆ユリ御殿とユリ球根の輸出
 明治時代の本に、県内のユリ根(ユリの球根)産地として、鎌倉郡玉縄村がまず挙げられている。鎌倉市内に伝わる農業日記には、明治中頃に玉縄村・十二所・大船で山ユリやテッポウユリの球根の山採りや栽培が始まった。大正初期に貿易商の副社長を務めた角田助太郎氏によって黒軸テッポウユリの栽培が行われた(山ユリは半日陰の斜面地では育つが、平地栽培には適さなかったので除外された)。ユリは連作を嫌うので、輪作をするために栽培地を戸塚、八王子、津久井、伊豆韮山などに移し土地も拡張して行った。横浜港から輸出されたが、輸出ではシルク、お茶の次に多く、Sサイズのテッポウユリの球根が現在の1万円ほどで取引された。第二次世界大戦を機にユリの値段は暴落して輸出は衰退した、その後、栽培技術は大船フラワーセンターに引き継がれた。大船観音様近くにある角田家の純和風住宅を、元はユリ御殿ともいわれた。
◆欧米とユリ
日本ではどこでも見られる花だが、欧米の風土には馴染まず、殆ど育たなかった。欧米への日本ユリの紹介は江戸時代から始まり、球根の輸出は明治初めに始まった。日本のユリはイースター(復活祭)のころに咲く生花として使われ、イースターリリーとして親しまれている。最初に日本のユリをヨーロッパに持ち帰って紹介したのがシーボルトで、多種の植物も持ち帰ったが、長い船旅で多くが腐敗してしまった。わずかに残った球根の中でカノコユリやテッポウユリが咲き、評判になった(ヤマユリは土質が合わず咲かなかった)。現在ではバッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院にも日本のユリが植えられている。

(参考)
※講演はパワーポイントを使って行われた。
※ユリについて調べるにあたって玉縄図書館 佐藤館長のご協力をいただきました。
※休憩後は玉縄図書館の佐藤館長から鎌倉市図書館所蔵の今回の講演に関する本の紹介が有った。
※休憩時間と講演終了後にはユリに関する多くの展示資料を見せていただいた。
配布資料:レジメ「海を渡った鎌倉のユリ」 A4紙 2枚
      鎌倉市図書館所蔵の関連図書紹介 A4紙 2枚

 

 
>>当日のチラシをDL  海を渡った鎌倉・玉縄のユリ
 

第272回 公開講座「頼朝以前の鎌倉~大庭御厨と源頼朝」

2021年(令和3年)4月4日(日)  13:30~15:40
玉縄学習センター第4集会室(玉縄行政センター3階)
参加者:67名 (会員~37名 一般~30名)

講師:大 澤   泉 氏  (鎌倉歴史文化交流館 学芸員)      

 (はじめに)
司会者から講師の専門を日本中世史、また講師は「古文書等を読み解きながら研究を進める『文献史学』(※1)です」と自己紹介しました。 
(講座のテーマ)
講演に入り講師は「鎌倉と言えば頼朝です。頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたのか、その理由は鎌倉時代以前の鎌倉の姿を検討すれば、手がかりをつかめます。講座前半は古代鎌倉を知る貴重な史料『天養記』(※2)を読み解き、大庭御厨(※3)と源義朝の関わり、後半は発掘調査によって明らかになった古代鎌倉の姿(鎌倉地域の特性)を考察します」と配付資料と映像を使い講義に入りました。
(源頼朝入部(1180年)以前の鎌倉)
『吾妻鏡』(※4)に書かれた■頼朝入部以前の「もともとの鎌倉の様子」(※5)、■鎌倉入部の理由(※6)、■鎌倉入部と旧義朝館の訪問(※7)、大倉郷に邸宅造営(※8)、■武士等への本領安堵・新恩給給与(※9)に触れました。本領安堵・新恩給について「武家政権成立の端緒の出来事が相模国府(※10)で行われた。国府が一国の行政の拠点として認識され、相応しい場とされていた事を反映している」と説明しました。
また、吾妻鏡は、鎌倉幕府公式の歴史を記した編纂物です。一次史料ではありません(※11)ので文面を鵜呑みに出来ません。他の『天養記』等の史料と合わせて読み解く必要があることを付け加えました。
(大庭御厨への入部事件にみる相模国国衙在庁(※12)と源義朝)
■伊勢神宮の所領であった相模国大庭御厨に相模国国衙在庁と源義朝郎従(※13)や田所目代(※14)等、二度にわたり入部した事件を伊勢神宮側が記述している原文(案文群(※15)=『天養記』)を読み解き、<1>大庭御厨と義朝の関わり合い(大庭御厨の立件(※16)から入部事件に至る経緯、入部の目的、入部人員の構成―国衙と義朝等(※17))を分析し、<2>義朝が鎌倉に居住していたことが史料上明らかなことを強調しました。■入部事件の背景を「義朝およびその郎従である三浦氏等は、国守・目代・在庁による知行体制から一定の独立性を持った集団であったと考えるべきであろう。さらに付け加えるならば、そのような独立性を持った義朝が居を構えた鎌倉郡と、その郎従である三浦氏が抑えていた三浦郡の両郡は、国守や国衙在庁による直接的な管掌下にない、行政的には独立性の強い地域となっていたのではないだろうか」とまとめの見解を述べました。
(鎌倉地域の特性)
講演後半は、■鎌倉にあったラグーン(※18)、■考古学的な研究成果(※19)、■ラグーンの景観復原に関する研究(※20)等を紹介し、鎌倉地域の特性を詳しく説明しました。
(まとめ)
講師は、頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由を、■『天養記』から読み解ける鎌倉・三浦地域の独立性(※21)、■源氏四代(※22)が相模守を歴任し国衙の重要な機能である海上交通のルートを源氏が手に入れていた、■源氏の拠点である鎌倉に郡衙(今小路西遺跡)(※23)が存在し、海上交通と路上交通の結節点となる機能を有していた、と見解をまとめました。「ほかにも諸説あります。勉強してください」と最後を激励の言葉で結びました。

(参考1)◆ 公開講座配付資料「頼朝以前の鎌倉~大庭御厨と源義朝~」A4判5枚5頁、 映像化資料。
(参考2)◆ 玉縄歴史の会では、緊急事態宣言を受けて2021年(令和3年)1~3月の活動を中止したため、本公開講座は本年最初の活動となりました。◆ 会場は定員150人(利用可能者数72人)の広い集会室であり、参加者は抽選によらず会員、一般希望者全員が参加できました。また、本講座への参加呼びかけのため、事前にチラシ「頼朝以前の鎌倉~大庭御厨と源義朝~」を作成しました。その効果が顕著に認められ、67名の記録的な多数の参加者がありました。◆ 新型コロナ感染防止対策の基本(マスクの着用、手指の消毒、検温、席の間隔を1m以上確保、会場内の換気等)を徹底して開催されました。 
(参考3)(※1)文字として先人達が残した情報である「文献史料」を、厳密な史料批判の作業に基づき解釈していく学問(東北芸術工科大学・歴史遺産学科 村木志伸研究室HP)。◆(※2) ① 伊勢神宮の所領であった相模国大庭御厨に相模国国衙在庁と源義朝郎従が入部した事件に関する案文群、巻子装の文書群、計十通の文書案。後の手控え、もしくは後年に行われた訴訟のため、大庭御厨が伊勢神宮領であることの証拠文書集として作成されたものと思われる。平安末期の相模国の在地情勢を知ることができる貴重な史料(講座配付資料1.2頁)。② 大庭地区の基本的な史料集。正確には「相模国大庭御厨古文書」という。長承3(1134)年から天養2(1145)年までの大庭御厨に関する、朝廷と伊勢神宮から出された文書写し10通を1巻として貼り継ぎしてある。重要文化財。平安時代後期、大庭御厨内大庭・鵠沼・片瀬などの地域住人の様子、伊勢神宮から派遣された神主や定使、源義朝に従う武士団、国衙の役人など、そして鎌倉権五郎影正の子孫たちの活動を生き生きと知ることができる(『歴史をひもとく藤沢の資料5 善行地区・湘南大庭地区~伊藤一美執筆』2020.3.31 藤沢市文書館)。◆(※3) ① 大庭御厨とは~ 相模国高座郡に所在した伊勢神宮の御厨の一つ。十二世紀初めごろ、在地住人の平影正が開発し、後に伊勢神宮に寄進したことが御厨の始まりである。長治年中(1104~05)に影正は国判によってその申請が認められている(『神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(2)~伊藤一美執筆』藤沢市文化財調査報告書42集 2007年(平成19年)3月 藤沢市教育委員会・編集発行)。② 国判~国衙へ提出した影正の申請文書の余白等に、免除の文言を書き加えたものか(講座配付資料)。◆(※4)鎌倉幕府の創始期から中期までの事績を、幕府自身で編纂した歴史書。記事は治承4年(1180)に始まり、文永3年(1266)までの編年体(『國史大辞典1』~益田 宗執筆』昭和54年・吉川弘文館)。◆(※5)治承4年12月12日条~「鎌倉はもともと辺鄙なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。・・(講座配付資料)。◆ (※6) 治承4年9月9日条~千葉常胤の進言「今いる居所は取り立てて要害の地ではありません。また源氏にゆかりの地でもありません。早く相模国の鎌倉にお向かいください」(講座配付資料)。◆ (※7) 治承4年10月7日条~「その後左典厩(源義朝)の御旧跡である亀谷(かめがやつ)に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、その上岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うため寺院を建てていたため、お止めになったという(講師講演)。◆(※8)治承4年12月12日条「・・大倉郷に作られたのである」(講師講演)。◆(※9)① 治承4年10月2日条「相模国府で初めて武士等の本領安堵・新恩給を行う(講師講演)。② 本領安堵~鎌倉・建武・室町の各政権樹立期に特徴的にみられる安堵の一形態。安堵者と被安堵者の間に主従関係が設定されるきっかけになった。内容は二種類あり、第一は武士の開発私領・相伝所領を本領として確認するもの。第二は、武士たちに失われた旧領を回復させるもの(『日本史広辞典』1997年 山川出版社)。③ 新恩給与~封建的主従関係は主人の御恩と従者の奉公とを基底として成立しているが、主人から恩恵的意志によって従者に土地またはその土地の用益権を与えることを恩給という。このように主従制と密接に結びついた恩給制が典型にあらわれるのは鎌倉時代の初めである。主人から私領(本領)の安堵をも恩給制の重要な要素と考えられている。恩給を主人の立場からは「新恩を加う」「御恩を施す」などとも称する((『國史大辞典2~河合正治執筆』昭和57年 吉川弘文館)。◆(※10)国府~律令制度のもとで、国司が政務をとる官庁を「国庁」とよぶのに対して、その所在地として計画的に設定された地方都市を「国府」とする用語例が多く、「国衙」は在庁など国司制の変質に伴い多用された語と思われる((『國史大辞典5~平野邦雄執筆』昭和60年 吉川弘文館)。◆ (※11) ・・・記事は、将軍のいる鎌倉でその日その日の出来事を書記するという、日記体をとってはいるが、実際は、編纂者が種々の材料を駆使して後に編纂したものである。・・・編纂に用いられた材料のうち今日残っていてそれと指摘されている書物には京都の公家の日記・・・藤原定家の『明月記』・・・・がある((『國史大辞典1~益田 宗執筆』昭和54年 吉川弘文館)。◆(※12) 平安時代中期以降中世にかけて存在した国衙の庁務を担う特定の役人に対する総称。土着の豪族で現地国庁の種々所(ところ)を構成し庁の文書行政務を担う雑色人(ぞうしきにん)(『國史大辞典6~義江彰夫執筆』昭和60年 吉川弘文館)。◆(※13)清大夫安行・字新藤太・三浦庄司平吉次男同吉明・中村庄司同宗平・和田太郎同助弘(講座配付資料)。◆(※14)土地関係の職掌を主とする国司の代官(講演講師)、(『國史大辞典13~五味文彦執筆』平成4年 吉川弘文館。)。◆(※15)上記(※2)①。◆(※16)土地の取得、売買、譲渡、確定などの際に、その事実を証明するための文書を作成すること(『講座日本史荘園史』1)(『神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(2) 伊藤一美執筆』 藤沢市文化財調査報告書42集  2007年(平成19年)3月 藤沢市教育委員会・編集発行)。◆(※17) ① 入部~天養元年9月上旬と同年10月21日の二度。② 大庭御厨の範囲や入部・目代等との共謀の目的など(講座配付資料)。◆(※18) ① ラグーン~沿岸の浅海の一部が、砂洲、沿岸洲、砂嘴(さし)などにより外海と切り離され、浅い湖沼となったもので、潟、潟湖とも呼ぶ(『世界大百科事典29~堀内清司執筆』2011年 平凡社)。② 鎌倉の古代のラグーンの様子~「此所をみれば、数百艘の船とも綱をくさりて大津の浦に似たり千万宇の宅軒を並へて大淀の渡りにことならず」(『海道記』)。③『海道記』~鎌倉時代の京都・鎌倉間の紀行(貞応2年(1223)成立)。一冊。作者不明(『國史大辞典3~石田吉貞執筆』昭和58年 吉川弘文館)。◆(※19)潟湖の規模、範囲についての考古学的な研究を映像で紹介しました(講座配付資料)。◆(※20)① 斉藤直子「中世前期鎌倉の海岸線と港湾機能」1995年の研究結果を紹介・説明しました(講座配付資料)。◆(※21)国司に対して独立性をもった義朝が居を構えた鎌倉郡とその郎従である三浦氏が抑えていた三浦郡の両郡は、国守や国衙在庁による直接的な管掌下にない、行政的には独立性の強い地域であった(講座配付資料)。◆(※22)源頼信・頼義・義家・為義(講座配付資料)。◆(※23)鎌倉市立御成小学校の校庭から見つかった天平5(733)年7月14日付け木簡は、そこに鎌倉郡衙があったことを明確にした。木簡は「鎌倉郡鎌倉郷鎌倉里」「郷長丸子□」が「糒(ほしい)五斗」を送付した時の付け札(送り状)と思われる(講座配付資料。伊藤一美著『藤沢氏ブックレット6 大庭御厨に生きる人々』 2015(平成27)年 藤沢市文書館)。
 

>>当日のチラシをDL  頼朝以前鎌倉のチラシ 
 

第271回 公開講座「岩瀬村古文書から小名(こな)を調べる~相模国鎌倉郡岩瀬村小名~」

2020年(令和2年)12月6日(日)  13:30~15:40
玉縄学習センター分室・第3集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:23名 (会員のみ)

※講師:平 田  恵 美 氏 (鎌倉市中央図書館近代資料室 玉縄歴史の会古文書の会講師)
※講師:栗 田  洋 二 氏 (玉縄歴史の会会員 古文書の会会員)  

(本講座について)
 12月の公開講座は例年、玉縄歴史の会古文書の会が発表を行っています。本年は、同会員・栗田洋二氏が諸史料から岩瀬村(※1)小名を調査・研究し、岩瀬村小名分布地図を作成した自主研究の成果を発表しました。その研究活動に助言・指導された平田恵美氏が小名(※2)について理解を深めるため、学問的意義と歴史について導入講義をされました。
(平田氏の講義)
■ 栗田氏の小名研究の意義
平田氏は始めに、栗田氏の岩瀬村小名の研究について、「近辺では、すでに玉縄村、大船村の小名の研究が行われ地図化(※3)されているが、小名の概ねの場所を示すにとどまり、範囲を特定し図示するまでには至っていません。今回、栗田さんが諸史料の解明(小名の洗い出し)と法務局の古地図・地番との照合(小名の場所の絞り込み・紐づけ)等を根気よく丁寧に行い、小名の範囲を特定、色分けした分布図作成にチャレンジして、地図を完成させたのは初めてであり、貴重な研究成果です」と高く評価されました。
■ 本論に入り「地域に残る小名の歴史」について、小名の定義、地方(じかた)古文書における小名の表記例、江戸時代から明治政府の地租改正、公簿上の小名の消滅、町村制施行等、歴史的変遷を解説されました。
(栗田氏の研究発表)
① 諸史料の解読と岩瀬村小名の洗い出しから範囲の特定まで
栗田氏は、*栗田家文書「地誌御調書上帳控」(文政7年-1824年)。*「新編相模国風土記稿」。*「大長寺(※4)領 御縄打水帳」(天正20年-1592年)。*「岩瀬村御検地帳」(延宝6年-1678年)等(※5)の古文書を丹念に解読、126か所の小名の洗い出し → 場所の絞り込み → 紐づけ → 範囲の特定を行いました。
② 小名分布図の作成
更に、(1)地租改正時の地番が書かれている昭和初期に作られた鎌倉郡土地宝典の小坂村大字岩瀬の白地図(A0版)に特定した小名の場所・範囲を図示、色付けをし、(2)その上に高透明のフィルム(史料保存用)を重ね、(3)フィルムの上に小名名のラベルシールを貼付けた。こうして、当時の小名と現在の位置とを対比出来る「相模国鎌倉郡岩瀬村 小名」分布図を完成させました。
栗田氏は、①の研究結果を配付資料にまとめ、小名分布図は黒板に掲出、発表しました。また現在でも使われている地名(小名)、由来など興味深い内容も説明しました。
(最後に)
栗田氏は「本年3月以降、コロナ禍のため玉縄歴史の会活動が中止続きだったので岩瀬村の小名について調査、地図の作成に専念しました」と地道な研究活動が貴重な成果につながったことを話しました。また玉縄地区小名の研究を行い、同テーマの公開講座(※6)講師を務めたことのある玉縄歴史の会会長・関根肇氏は、栗田氏の研究発表を「よくやりました!」と絶賛しました。
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(参考1)公開講座配付資料~「古文書の会発表「岩瀬村の小名について」~A4判8頁、資料編~A4判13頁
(参考2)会場黒板掲出資料~①令和2年9月作成地図「相模国鎌倉郡岩瀬村 小名」。②岩瀬村古絵図3枚(a.小名書入絵図、b.大長寺寺領書入絵図、c.村の橋梁書入絵図)。③縮尺三萬分之一の岩瀬村と周辺の村地図。④雪下村図。⑤明治初期の「地券」。⑤岩瀬村の昔と現在の地図。 
(参考3) ◆(※1)江戸期~明治22年の村名。鎌倉郡のうち。寛永10年幕府領と大長寺領、元禄10年幕府領・大長寺領と旗本菅谷氏・小浜氏・木原氏の相給。幕末は幕府領と大長寺領。昭和43年から現在の鎌倉市の町名。1丁目がある。(『角川地名辞典14・神奈川県』。◆(※2)字の事、地所の小名を字(あざな)という。江戸期の村名を大字(おおあざ)とした。小名といわれた耕地名を大字に対し小字(こあざ)といわれた。旧来の地名には各町村の下に必ず字と小名とがあった。字名は公称に用い、小名は便宜上俗称した。(本講座配付資料1頁)。◆(※3)①玉縄村~*「玉縄の地名地図」(『鎌倉近代史資料集第14集・大街堂(おおけいどう)日記』付録(平成17年鎌倉市教育委員会・鎌倉市中央図書館発行、鎌倉市中央図書館近代史資料収集室編集。鎌倉市中央図書館にて閲覧可能)。*「鎌倉市玉縄地区古地名地図」(『玉縄の歴史と文化~玉縄風土記~資料集』平成26年(2014)玉縄 歴史の会編・発行)。②大船村~地元郷土史研究家作成(本講座・平田氏)。◆(※4)①天正19年徳川家康から岩瀬村の内に朱印地を拝領(配付資料3頁)。②浄土宗知恩院末、天文17年創建、開基は北条綱成、開山は感挙存貞、中興は暁挙源栄(鎌倉市史社寺編)(『角川地名辞典14・神奈川県』)。◆(※5)他に①「岩瀬村御検地帳(四給分割後)、岩瀬村分郷帳 下」(寛政5年-1793年)。②「岩瀬村木原知行地田畑名寄帳」(文化6年-1809年)。③「岩瀬村名寄帳」(天保4年-1833年)。④「岩瀬村田畑方名寄帳」慶応4年3月-1868年)。⑤「田畑外反別取調帳(明治8年-1875年)。⑥「岩瀬邨田畑部名寄」(明治13年-1880年)。◆(※6)①「玉縄の古地名(その1)」・平成28年1月第220回公開講座。②「同 (その2)」・平成29年1月第232回公開講座。

 

 

第270回 公開講座「江の島の歴史 (1)~中世の江の島信仰~」

2020年(令和2年)11月8日(日)  13:30~15:45
玉縄学習センター第1集会室(玉縄行政センター1階)
参加者:22名 (会員のみ)

講師:伊 藤  一 美 氏  (鎌倉考古学研究所 理事)      
(講師の著書紹介)
 本講座の始めに、司会者から講師の著書『江の島、神の島から人の島へ』(※1)の紹介があり、講師からも「講座内容は、この本に詳しく書いています」と説明がありました。
(信仰の島―江の島についての考察)
 講演に入り講師は「江島明神、岩本院(※2)は奈良時代に原形ができて、岩屋は信仰の場所となり、竹生島(滋賀県)、厳島(広島県)とともに日本三弁天とされた。当時のことを明確に証明することは難しいが、洞窟・岩屋に信仰の原点があったことが平安末期から鎌倉前期の当時の絵巻等から考察できる」と説明し本論に移りました。
講師は『吾妻鏡』(※3)、「江の島縁起」(※4)、『海道記』(※5)、『太平記』(※6)、「一遍上人聖絵伝」断簡(※7)等の史料を考証的に研究され、記述内容の歴史的背景を「江の島明神と鎌倉幕府」、「『江の島縁起』の世界」、「中世鎌倉人の見た江の島」の視点で、鎌倉から室町時代をベースに「江の島の性格・内容」の変化を考察、講演しました(※8)。
■「江の島明神と鎌倉幕府」の項では、『吾妻鏡』の記述(寿永元年(1182)4月5日の条)は、「江の島」が明確に歴史に位置付けられた最初であるが、「江の島神明」の起源が 源頼朝の発願・文覚上人が「大弁才天」を勧請したとの記述は事実とは異なり、編者が「江島神明」の伝承を元に、後に幕府公認の霊所へ導くために書いと考えられる(※9)。その後、鎌倉幕府が江の島に「明神」が存在し、霊験あらたかな幕府公認「霊地」とし、頼朝政権にとって大事な神社と位置付けられた。また、「龍穴」は「霊所」つまり「清め祓う地」へ転換した。「七瀬祓い」(※10)との関わりがその変容過程を示し、次第に鶴が岡八幡宮の所管(祈祷所)に移っていった。
■「『江の島縁起』の世界」の項では、縁起記述の内容・物語を解説し、特に江嶋神社蔵・「江嶋縁起」(真名本)と金沢文庫蔵「相州津村江之島縁起」とを比較して記載順の違い、編成のあり方。
■「中世鎌倉人の見た江の島」の項では、江の島を訪れた中世人たちの記録を考察し、『海道記』作者が「「江尻大明神」には法師が参詣しない」話に疑問をもったことから、当時江の島では神官と法師の対立があったのだろうということや、また、当時京都にも「江の島縁起」が知られていたことが分かる。室町時代には、江の島が都人の観光地となっていた。「一遍上人聖絵伝」断簡の絵から、上人が来島し多くの人たちが集まり干潮時の砂州を片瀬から島へ歩いて渡っている様子等は、当時の片瀬と江の島地域の様相を知ることができる貴重な絵であると評価した。
以上、3点について詳しく解説しました。
(最後に)
講師は「次回は「江の島と後北条氏」のテーマで話します。江の島は玉縄城の領域であり、信仰との関わりが大事なテーマです。」と玉縄歴史の会への助言を残してくださいました。
(参考1)本講座は講師・伊藤一美氏の「江の島の歴史」2回シリーズの1回目。(2回目は、2021年(令和3)年1月10日(日)開催 第272回公開講座「江の島の歴史(2)~江の島と後北条氏~」) 
(参考2) 公開講座配付資料 「江の島の歴史(1)~中世の江の島信仰~」 A4判 7頁
(参考3) ◆(※1)①『藤沢市ブックレット10 江の島、神の島から人の島へ』伊藤一美著 2019年3月、藤沢市文書館(もんじょかん)発行(以後、著書という)。閲覧・購入(800円・税込み)は藤沢市本庁舎4階市民相談情報課・藤沢市文書館で、閲覧は全藤沢市図書館・市民図書室でできる。② 著者(講師)は著書の「はじめに」と「あとがき」に、自宅から見える「江の島」について「「弁才天」の座す信仰の島であった。今は・・・夜に新たなシーキャンドル(展望灯台)として観光客の目指すスポットとなり、2020年(2021年に延期)には東京オリンピックのヨットセーリング会場として世界の目が再び集まる場所となった。神が創り、そして人の島となった、特別の意味をもつ島であると感じた。観光地で賑わう江の島の歴史を人々の目線から見てみたい」と「江の島」を研究対象とした動機を著述している。◆(※2)現在の「岩本楼」。中世には弁才天を本尊とした「岩屋本宮」があり、岩本坊別当寺が管理に当たっていた。「岩本坊」は「岩屋本宮」及び弁才天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代に院号使用を許され、「岩本院」と称し、江の島全体の総別当であった(岩本楼前案内)。◆(※3)鎌倉幕府の創始期から中期までの事績を、幕府自身で編纂した歴史書。記事は治承4年(1180)に始まり、文永3年(1266)までの編年体(『国史大辞典1』昭和54年・吉川弘文館)。◆(※4)①「江の島縁起」は江の島の創生、江の島神社の創始、信仰の中心である弁才天の霊験を説いた物語である(石塚勝執筆~『歴史をひもとく藤沢の資料・3片瀬地区』2018年、藤沢市文書館発行)。②現存は4つの縁起。・江嶋神社蔵「江嶋縁起」(真名本)、・金沢文庫蔵「相州津村江之島縁起」、江嶋縁起―岩本院本、・江島神社絵巻(岩屋内案内板)。◆(※5)鎌倉時代の京都・鎌倉間の紀行(貞応2年(1223)成立)。一冊。作者不明。(『國史大辞典3』昭和58年)◆(※6)南北朝内乱期を描いた軍記物語。40巻。作者は不明(『國史大辞典8』昭和62年)。◆(※7)時宗の開祖一遍の伝記絵巻。断簡は諸家に分蔵されたもの。その巻六の一段(特別展図録「国宝一遍聖絵(遊行寺宝物館他2015)(著書本文33頁、『国史大辞典1』)。◆(※8)「・・・伝承残す「縁起」とその源流がいつごろまで遡れるかを書誌学的に考えるのも小著の目標である」(著書「はじめに」)。◆(※9)「歴史上最初の史料に対しては、なぜこう書かれているのか、歴史的背景を究めることが大事である」(講座・講師)。◆(※10)京都での天皇みずからの祓いの儀式を取り入れたもので、陰陽師の祈祷、鎌倉地域の境とされる霊所・「由比浜」「金洗沢」「固瀬河」「六連(浦)」「鼬河」「杜戸」「江嶋龍穴」の七瀬(講師・講座資料3頁)。
 

 

 
 

第269回 公開講座「東大寺良弁僧正と染谷(屋)太郎太夫時忠」

2020年(令和2年)10月4日(日)  13:30~15:45
玉縄学習センター分室・第3集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:24名 (会員のみ)

講師:藤 田  武 氏  (玉縄歴史の会 世話人)      
 講師は始めに、「相模国の長者伝説で知られる染谷(屋)太郎太夫時忠が、東大寺初代別当(※1)として同寺の創建に尽力し南都仏教界・奈良仏教史上偉大な足跡を残したにもかかわらず、前半生が謎のベールに包まれている良弁(ろうべん)僧正(689―773)の父親であると記述する「大山縁起」(※2)に興味を抱き、研究を深めた。僧正の生国は有力な諸説はあるが、相模説は単に伝説ではなく学問的論拠があり、時忠が実在の人間であろう、こういう考えもあってもいいだろうと確信するまでになった」と話し、続いてその論拠を説明しました。
★東大寺伝によれば「僧正者(は)相模国人漆部氏・・・・」と相模生国と記述されている。(※3)
★歴史研究家の松本信道氏は「「大山縁起」は成立以前に実在人物の原像があり、そのイメージが拡大投影されて形成された。同縁起に見える時忠は『続日本紀』にしばしば登場する相模国国造である漆部直伊波(ぬりべのあたいいわ)と同一人物であると考える」(※4)と論じ、また同研究家の筒井英俊氏は「良弁僧正と伊波とは血縁であると考える。僧正の生国は相模説が正しいし、伊波が相模国造(※5)に補せられたことから推して僧正の家は相当な豪族であった事と思う」(※6)と著している。
★伊波が「相模国国造」に任命されたことについて、当時、国造はその国の出身者が就任する厳格な慣例があり、栄原永遠男氏は「漆部直伊波が相模出身であることは、ほとんど確実である」と指摘している。(※7)
★伊波は東国(相模)と難波津間の東西遠距離交易(※8)を行い、難波津と平城京の東市に自領をもっている。平城京には相模国調邸(※9)を難波津には東大寺領がある。伊波は東大寺建立に際し商布二万端を寄進(※10)、また東大寺の平城京東市領地取得時に斡旋するなど東大寺と密接な関係にあった(※11)。
★時忠の伝承が鎌倉郡に多く、鎌倉長谷や大船、本郷台などが時忠の領地であったと推察され、特にこの地域は製鉄関連地名があるように、時忠は初期には製鉄事業により財を成したと考えられる。

まとめとして、伊波(歴史上の人物)と時忠(伝説上の人物)は同一人物である。良弁と伊波(時忠)は年齢差から親子ではなく(※12)、血縁関係であったろうと、強く確信するに至ったと結びました。
(参考1)本講座開始前に、公開講座を再開するにあたり、玉縄歴史の会会長・関根 肇氏があいさつを行いました。
(参考2)公開講座配布資料 「良弁僧正と染谷太郎太夫時忠」 A4判 18ページ(9枚)
(参考3)■(※1)諸大寺院に置かれた寺務統括の僧官。良弁の東大寺別当就任がわが国で最初。(『日本史辞典』角川書点)■(※2)「良弁者(は)相模国鎌倉郡由伊(井・比)郷人也(なり)。俗姓漆部氏。当国良将漆屋太郎太夫時忠子也(なり)」■(※3)東大寺要録―本願章 ■(※4)「・・・実在人物として相模国国造(律令国造)の現像が縁起成立以前に存在したことから、その原像のイメージが拡大投影されて形成されたものが「大山縁起」に見える「染谷太郎太夫時忠」にほかならないと考える。つまり「「染谷太郎太夫時忠」は『続日本紀』に・・・・・・と考える」(松本信道著「漆部直伊波と染谷時忠」(『秦野市研究』第2号
(1982)所収) ■(※5)律令体制成立後の国造を「律令国造」などと呼称され、「神祇祭祀」と征軍に随行する神部的任務があった。(原秀三郎氏)■(※6)筒井英俊著「良辨僧正と漆部氏」(『南都仏教』創刊号(1955)所収)■(※7)栄原永遠男著「日本古代遠距離交易について」(『古代国家の形成と展開』大阪歴史学会編(1976)所収)■(※8)畿内主要部と畿外とりわけ三関(愛発、不破、鈴鹿)以東、摂津より東とを結ぶ交易をいう。(配付資料) ■(※9)相模国から運京されてきた調(諸物産を朝廷に貢進する税の一種)を取り扱う施設。■(※10)商布:古代の布の一種。調庸品目の代物として貢納、交易の対象とされることが多かった。段(たん)を単位として用い、一段は二丈六尺(約7.8m)であった。寄進:「東大寺要禄―造寺材木知識記」(配付資料)■(※11)考古学者・森浩一氏の論(「政商・漆部伊波のこと」(『関東学をひらく』(2001)所収) ■(※12)伊波が相模国造に就任した768年は、良弁は79歳であり、親子とは説明が困難である。

 

 
 

第268回 公開講座「大磯・高麗寺(こうらいじ)と高麗寺村の歴史」

2020年(令和2年)3月1日(日)  13:30~15:30 
         NPOセンター大船・会議室(たまなわ交流センター1階)
参加者:23名 (会員  20名 一般 3名)

講師:富 田  三沙子 氏  (大磯町郷土資料館 学芸員)      
 講師は始めに、「高麗寺は大磯宿の東隣りに立つ昔から山岳信仰の対象とされた高麗(こま)山麓にあり、その周囲の寺領が高麗寺村でした。」と、更に「寺領が一つの村を形成した珍しさと、領主が同じ地域に居る為、大名や旗本と違う独自の支配体制が作られた特色がある。」と主に江戸時代の高麗寺と高麗寺村の歴史を講演されました。★高麗寺は高麗権現社(現在の高来神社)の別当寺(※1)であり、江戸時代に徳川家康から朱印地(※1)として100石の土地が与えられ上野・寛永寺末寺の高い寺格を有した。★寛政12(1800)年に「大磯宿の一部」とされていた寺領の村独立が認められ高麗寺が領主の高麗寺村が成立した。★史料が無く歴代住職に関し分からないが、41世慧歓(えいかん)(天明5(1785)年在職)だけが①自坊修復②寺領整理③本堂再建の寺改革記録「銘細帳控」を遺し、苦しい時代に寺を再興するような働き振りが分かる。★高麗寺は明治政府の神仏分離政策により廃寺となり、仏具類は慶覚院に継承された。 

(参考1)~ ■公開講座配付資料・・・・A4判2枚 A3判4枚  ■ 映像資料(DVD~江戸時代の絵図や古文書史料等)
(参考2)~ ■(※1) 神宮寺の一種で、読経や祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行った寺院のこと。■(※2)将軍が発給した朱印状によって年貢が免除されたり、その領有が認められた寺院や神社の土地 (※1,2・・・・『大磯町史』6 通史編)

 

第267回 公開講座「武士(もののふ)たちの精神的砦 鶴岡八幡宮寺」

2020年(令和2年)2月2日(日)  13:30~15:45 
         玉縄学習センター分室・第三集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:47名 (会員  27名 一般 20名)

講師:児 島    晃 氏  (鎌倉歴史フォーラム主宰)      
 講師は始めに、「鶴岡八幡宮は1868年の神仏分離令までは鶴岡八幡宮寺といい、境内に鐘楼、薬師堂等が建つ宮寺でした」と説明して本論に入り、九州宇佐(※1)の一地方神から武神と崇められ、源氏の守護神として源頼朝が篤い信仰を寄せ、鎌倉幕府創建に決起した武士たちの精神的砦ともなった八幡神の来歴と役割を講演された。◆八幡信仰の発生と国家神へ~朝鮮から九州宇佐に渡来した辛嶋氏・八幡神と、地元の宇佐氏・宇佐神を融合して日本の神・八幡神が生まれた。ヤマト政権の反乱軍制圧や聖武天皇の奈良・大仏造営に鋳造技術等で援助の貢献が大きく、天皇が認める国家神へ発展した。◆鶴岡八幡宮寺の造営~1063年、源頼義が石清水八幡宮から勧請した(※2)のが始まりで、1191年に源頼朝が現在の地に上下両宮の鶴岡八幡宮寺を建立した(※3)。◆鎌倉幕府と八幡大菩薩~頼朝は八幡大菩薩に心から帰依し最大の精神的拠り所として、鶴岡八幡宮寺を拠点にした政治、まちづくりを行った。

(参考1)~公開講座資料・・・「武士(もののふ)たちの精神的砦 鶴岡八幡宮寺」  (A4判 3枚)
(参考2)~■(※1)現在の大分県宇佐市 ■(※2)旧跡は現在の鎌倉市材木座にある元八幡宮といわれる■(※3)1191年3月に火災で社殿が焼失、頼朝が新たに石清水八幡宮(現在の京都府八幡市)から勧請し、現在の本宮(上宮)と若宮(下宮)の形に建立したのが1191年11月21日のこと。以来、鶴岡八幡宮寺ではこの日を御鎮座日とした。現在は太陽暦の12月16日に御鎮座記念祭が行れる。(『社寺縁起伝説辞典』 戎光祥出版)

 

2020(令和2)年度「玉縄歴史の会」定時総会

2020年(令和2年)1月12日(日)  13:30~15:56 
         玉縄学習センター分室・第三集会室(たまなわ交流センター2階)
出席者:会員 33名

(定時総会)      
 定時総会は、関根肇会長挨拶、議長選出に続き報告・提起された、2019(平成31・令和元)年度事業報告、同会計報告、同会計監査報告、会則の一部改定、選出・退任世話人の報告、2020(令和2)年度事業計画について審議が行われた。その結果、全議案とも全会一致で承認され定時総会は終了した。
(参考) 配付資料 ~ 令和二年度「玉縄歴史の会」総会  (A4判4枚)

 

第266回 公開講座「藤沢・村岡地域の伝承と伝説」

2020年(令和2年)1月 12日(日)  14:04~15:30 
         玉縄学習センター分室・第三集会室(たまなわ交流センター2階)
参加者:43名 (会員  33名 一般 10名)

講師:椎 野 忠雄 氏 (玉縄歴史の会 会員)      
 講師は始めに、「藤沢・村岡地域」の範囲(※1)を地図で示し、玉縄地域(鎌倉市)から通じる二つの旧道がある隣接地域で、戦国時代には共に玉縄城(鎌倉市城廻ほか)の領域に属し、同じ城主の治政下にあったため「お互い親戚のようなものでした」と説明しました。また、両地域は柏尾川流域に低地(耕地)が、河川の北方(北西)は丘陵と谷戸が重なり合っていて地形が似ているところもあるが、村岡地域には長い歴史の中で独自に生まれ語り継がれてきた伝承・伝説がある。講師は、その中から諸文献に広く記述されている主なものを紹介しました
◆平良文(たいらのよしふみ)(村岡五郎)伝説~土着地に関し諸説(※2)あるが、「良文は①藤沢市の村岡を根拠地とした豪族 ②天慶三年(940)京都から「上御霊神社」を勧請した(宮前御霊神社)(※3)、同年藤沢・村岡に居館を構えて、都に帰らず・・・」と藤沢・村岡に居住したと広められた伝説
◆宮前御霊神社と鎌倉権五郎景正伝説~後三年の役武勇伝等
◆徳川家康と峯渡内村名主福原家の関係~梅干しの献上。「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりやく)」(※4)の編纂
◆村の生活の様子~江戸時代の重い年貢と助郷(※5)に苦しむ村人
◆その他、雨乞い祈祷や村岡地域寺社にまつわる伝承・伝説など。

(参考1)~公開講座資料・・・A4判3枚(本資料)、A4判2枚とA3判1枚(添付資料)
(参考2)~■(※1)・・・ (※1)現在の藤沢市川名、宮前、小塚、高谷、弥勒寺、渡内1~3丁目、柄沢、川名1~2丁目、片瀬山1丁目、村岡東1~4丁目、弥勒寺1~4丁目、大鋸1丁目、藤が岡2~3丁目(各地域のすべて、または1部)。(『藤沢の地名』日本地名研究所編 平成9年藤沢市発行)
■(※2)・・・平良文が土着し名乗りとした「村岡」については、相模国鎌倉郡の藤沢市村岡説、武蔵国大里郡の埼玉県熊谷市村岡説、下総国岡田郡の茨城県下妻市村岡説の三説があり熊谷市村岡説が有力視されている。(※3)・・・宮前御霊神社縁起研究から近世後期に平良文が勧請したと記載内容を変化整理されたと考えられる。((※2)(※3)・・『歴史をひもとく藤沢の資料 2村岡(むらおか)地区』 石塚 勝氏執筆 2017年藤沢市文書館発行) ■(※4)・・・峯渡内村の名主福原左平太高峰(1792~1868)が徳川家康の恩顧に報いるため編纂した相模国内の地誌。完成後、幕府に献上。(前掲「歴史をひもとく・・・・」)■(※5)・・・江戸時代、宿駅の人馬が不足したとき、これを負担するようきめられた宿駅近くの村。またその課役・制度。(『学研 国語大辞典』学習研究社発行)

  

 

第265回 公開講座「栗田家文書『御鷹御用留』を読む」

2019年(令和元年)12月 1日(日)  13:30~15:40 
         NPOセンター大船・会議室(たまなわ交流センター1階)
参加者:33名 (会員  25名 一般 8名)

講師:平 田 恵 美 氏 (鎌倉市中央図書館近代史資料室、玉縄歴史の会・古文書の会講師)
      発表者 ~ 玉縄歴史の会 会員  岩 間 勝 之 氏 ・ 小 坂 勝 代 氏 

 講師は始めに、「栗田家文書『御鷹御用留』」について、「栗田家(鎌倉市岩瀬)が保管している未公開の古文書であり、栗田家から提供を受けて現在玉縄歴史の会・古文書の会で解読・学習、詳細な分析を行っている」と説明した。更に、「■ 相模国が江戸時代の鷹狩の御捉飼場(おとらえかいば)(※1)の域内に入り、鎌倉郡岩瀬村の栗田源左衛門が安政7年(1860年)3月に前任者を継いで有力農民などが任ぜられた野廻り役(※2)に就いた。■ 同御用留(※3)は同人が元治元年(1864年)8月まで54案件を書き留め、内容や形式により「廻状」(※4)や書付(※5)等に分類でき、野廻り役の役割・仕事、村人に課せられた負担等が分かる。■ 栗田源左衛門は原町田や雑司ヶ谷まで赴き案件を処理しており、当時45歳を過ぎていて幕府の権威の象徴であった鷹狩組織の中で激務だったのではと読み取れる」等と解説した。
◆ 岩間氏は、「御鷹御用留」を深く理解するため江戸時代の鷹狩の歴史、目的、組織等を詳細に興味深く説明した。
◆ 小坂氏は、御用留特有のサラサラとした書き方、虫食いやシミ等で判読が難しい原文をゆっくり、分かり易く解読した。
講師は最後に「この御用留は江戸時代幕末期の地味な古文書ですが関心を持って読んでください」と語りました。

<参考1> ★(※1)将軍の鷹狩場の外側にある鷹匠が鷹を調教する場所で、普段は野廻り役が管理した。★(※2)御捉飼場を巡回し治安維持・管理等の広範囲の役割を有した。★(※3)江戸時代の村役人が領主から下達された触書、廻状を控え記録した帳簿。★(※4)同一の文書を数人の受取者に回覧の方法で送る文書。★(※5)注進内容等を書き記した文書で「書付を以て・・・」と標題を付す。
<参考2> 配付資料~「江戸時代の鷹狩と野廻り役栗田源左衛門」(A3判-11枚)

 
公開講座講師
公開講座・風景
発表者・岩間氏
発表者・小坂氏
 
 

第264回 公開講座「玉縄北条氏を嗣(つ)いだ氏重と上嶽寺の文化財」

2019年(令和元年)11月10日(日)13:30~15:30 
          玉縄学習センター分室・第3集会室  (たまなわ交流センター2階)
参加者:31名 (会員 25名、 一般 6名)

講師:外 山  信 司 氏  (千葉市立郷土博物館)
        特別参加 ~ 北条氏勝菩提寺・寶金剛寺(佐倉市)住職  京 極 勇 豪 師
講師ははじめに、「北条氏重(保科正直・四男)は、小田原合戦を境に中世の戦国武将から近世大名として生きた玉縄北条氏六代・氏勝の養子となり遺領を嗣いだ玉縄北条氏最後の当主である。玉縄北条氏は氏勝の代で絶えたのでなく氏重へと続いた。」と玉縄北条氏の歩みを語った。更に氏重が氏勝の孫娘を妻に迎えたことを「北条家」と妻の「杉原家」の系図を辿って明らかにし、氏重の玉縄北条氏当主の立場を裏付けるものであると正統性を強調した。また、玉縄北条氏当主を物語る数々の事蹟、遺品や文化財を紹介したが、特に氏重が城主であった久野城(袋井市)、掛川城(掛川市)の玉縄北条氏家紋「三鱗紋」軒瓦、菩提寺の上嶽寺(袋井市)所蔵の「北条氏重肖像画」 (賛付)、「北条氏重木像」、「北条氏重と夫人の位牌」、「玉縄北条一族の位牌」、「氏重の側室の位牌」などの貴重な遺品類を配付資料と映像を用いて内容や史料としての評価などを詳細に説明した。講師は最後に、「玉縄北条氏を介して鎌倉を中心に袋井・掛川と佐倉との交流をしていただき、結び付きが深まることを希望します。」と話された。尚、当講座に北条氏勝菩提寺・寶金剛寺(佐倉市)住職 京極勇豪師が講師と同行して特別に参加して、下記の会場展示資料を提供された。
(参考)
◆ 配付資料 ~ 「玉縄北条氏を嗣いだ氏重と上嶽寺の文化財」 (A3-4枚(両面刷り)
◆ 映像資料 (パワーポイント) 全 60 枚の写真
◆ 会場展示資料 (寶金剛寺住職 京極勇豪師 提供)
①玉縄北条氏旗 (複製幟旗・「黄八幡」、「江戸時代の玉縄北条氏軍旗」)
②最近発見された極めて貴重な「北条氏繁位牌」(同時に氏繁の室・七曲殿の位牌も発見されたが、損耗が激しく持参されなかった。)
③北条氏重葬列図巻物

 

 

第263回 公開講座「にらみ合った小田原北条氏と徳川家康

2019年(令和元年)10月6日(日)13:30~15:32 
         NPOセンター大船・会議室(たまなわ交流センター1階)
参加者:35名 (会員  24名、 一般 11名)

講師:大 竹 正 芳 氏 (日本画家 日本城郭史学会委員)
 講師は、当会企画10月16日(水)の第146回歴史散策会「甲斐路を訪ねるバスツアー」(第8回バス旅行)の案内人を務めることから、見学地「若神子(わかみこ)城址」(北杜市須玉町)と「甲斐善光寺・宝物館」(甲府市善光寺)の事前学習を兼ねた講演を行いました。
◆「若神子城(祉)」は、天正10年武田氏滅亡後、無秩序状態化した旧武田領を巡り小田原北条・五代氏直軍が本陣として徳川家康軍と対陣した城である。北条氏軍勢有利であったが離反者が続出、両軍勝敗がつかない儘に和解し同盟関係を結んだ(天正壬午の乱)。沼田領を巡る領地分け問題が北条氏と真田氏の対立を深め、8年後の小田原北条氏滅亡への遠因となり、戦国大名の最後を象徴する合戦であったと述べた。講師作成の現在の城址図面と見学要点も説明した。
◆「甲斐善光寺・宝物館」の歴史や本尊について説明した。また甲府開府500年記念特別公開・秘仏「峯薬師」と頼朝像最古とされる「木造源頼朝坐像」が見学の目玉であると解説した。

(参考)
配付資料 「にらみ合った小田原北条氏と徳川家康」([甲斐善光寺]資料付)(A4―4枚(4頁)


公開講座講師
公開講座・風景
  
 

第262回 公開講座「一遍上人と遊行寺(ゆぎょうじ)

2019年(令和元年)9月1日(日)13:30~15:45 
           玉縄学習センター分室(たまなわ交流センター2階)
参加者:56名 (会員 31名、 一般 25名)

講師:石 塚   勝 氏 (関東学院大学講師)
 講師は、時宗の二祖上人と尊称される真教(しんきょう)の七百年御遠忌を記念して、今月から遊行寺宝物館、神奈川県立歴史博物館において開催される特別展「真教と時衆」の前に同展に関連すること、全国にあまねく念仏を広めるために時衆(じしゅう―念仏の僧尼)を引き連れ、念仏と賦算(ふさん―念仏札の配付)を行い、一所不住の諸国遊行(ゆぎょう)を続けた時宗の宗祖一遍、一遍の後継者真教、一遍の孫弟子で清浄光院(しょうじょうこういん―遊行寺の前身)の開創者呑海(どんかい)らの生涯、事績等を辿り時宗・遊行寺の歴史を詳しく講義しました。
◆ 一遍は「我化道(けどう)は一期(いちご)はかりそ」(私が念仏して、みなに布教するのは私が生きている間だけのことだ)と開宗の意思はなかったが没後、時宗宗祖とされた。
◆ 他阿弥陀仏(たあみだぶつ)真教は時衆をまとめ、時宗教団の基礎を築き体制を創始した事実上の教団祖である。
◆ 呑海は遊行上人引退後遊行寺に留まり(独住(どくじゅう))藤沢上人(とうたくしょうにん―遊行寺住職)1世に。以後、同寺最大の特徴である遊行上人譲位後藤沢上人に就き、遊行・藤沢上人が並立して時衆統括を行った。
◆ 1633年遊行寺が江戸幕府から時宗総本山に位置付けられ、時宗が宗派として確立した。
                                               
参考 <1> 配付資料「一遍上人と遊行寺」・A3判(3枚・6頁付与)
   <2> 特別展「真教と時衆」
    ① 遊行寺宝物館(遊行寺・(電)0466-22-2063) 9月7日(土)~11月10日(日)
    ② 神奈川県立歴史博物館((電)045-201-0926)10月5日(土)~11月10日(日)

公開講座講師
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第261回講座「小田原合戦記~読本『小田原状』を読む」

2019年(令和元年)8月4日(日)13:30~15:55 
                  NPOセンター大船・会議室(玉縄交流センター1階)
参加者:41名 (会員 26名、 一般 15名)

講師:伊 藤 一 美 氏 (鎌倉考古学研究所 理事)
講師は、小田原北条氏の最後、小田原合戦の様子を、徳川軍で小田原城の接収役・榊原康政が加藤清正へ宛てた書状「小田原状」全文を詳しく解釈し読み進めた
① 講座の写本は、手紙形式の往来物と称し、裏表紙等の記述、本文文字が大きいことから明治5年貞宗寺に併設された学校の教科書・習字の手習い本でもあったと分かる。
② 小田原城内や周囲の町の様子等の記述箇所は、言葉、言い回しが「北条五代記」(巻9、10)に似ており徳川方から見た北条氏一族滅亡に至る簡便な歴史書とは言え、信ずるに足る読本である。等と分析した。“玉縄城明け渡し”箇所では、「北条氏勝は住民に厚い思いを向け、住民の安全を取り付けた城主であった。誇ってよい」との見解を紹介した。最後に「『小田原状』は一回読めば小田原合戦の様子が分かり、正に玉縄城膝元の学校で使用する社会科の教科書に適し、思いを込めて読まれたと思う」と結びました。
 参考
  <1> 配付資料「小田原合戦記 ***往来物『小田原状』を読む***」・A4判6頁)
  <2> 『北条五代記』所収書籍『通俗日本全史15巻』は鎌倉市中央図書館にて閲覧、借受け可能です。
  

 

公開講座・風景
公開講座・風景
 
  

第260回 公開講座「玉縄とその近郊の庚申塔を訪ねて

2019年(令和元年)7月7日(日)13:30~15:40 玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者:36名 (会員 25名、 一般 11名)

講師:鷹 取  昭 氏 (藤沢地名の会  日本石仏協会会員)
 講師は、はじめに、自ら神奈川県内の6000基を超える庚申塔の所在調査を行い、『神奈川の庚申塔事典』(鎌倉市中央図書館にて閲覧可)として著したことを紹介した。
講座は、その調査研究の成果を画像化した資料を用いて、<庚申の意義><庚申信仰の歴史と現状><玉縄城下の庚申塔><鎌倉・藤沢の庚申塔><青面金剛のいわれ><さまざまの主尊><ユーモラスな眷属(猿、蛇・龍)>等について解説した。
特に、◆ 玉縄城下(玉縄地域)は植木・龍寶寺境内設置(3基)ほか10か所設置の庚申塔   
◆ それ以外の鎌倉・藤沢市内では坂ノ下・五霊神社石仏群のほか21か所設置の庚申塔 
等について設置場所、造立時期、特徴(猿の姿態)、 その他を詳しく説明した。
 最後に、「散歩しながら庚申塔を探しましょう」と庚申塔へ関心を持って欲しいことも述べました。

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第259回 公開講座  「富士山宝永大噴火~被災状況と復旧への長い道のり~」

2019年(令和元年)6月2日(日) 13:30~15:40 玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者:27名 (会員 20名、 一般 7名)

講師:天 野 賢 一 氏 (公益財団法人 かながわ考古学財団)
 講師は、冒頭、「富士山の宝永大噴火の痕跡を把握・分析することは将来の防災、減災に役立てる狙いがある」と前置きし、古文書や絵図等に記録されている噴火時の降灰や被害状況、苦難の復旧活動等と、それらが実証された横野山王原遺跡(秦野市)の発掘調査結果を映像や資料で解説した。特に、、
  〇 当時「砂降り」と呼ばれた火山灰により、現在の静岡県東部から神奈川県にかけて、村落の埋没・困窮、耕作地の壊滅、
   頻発した河川の大洪水等甚大な被害が発生した。
   近辺では、江の島の漁業や島内生活の困難、柏尾川や境川の埋積、河床上昇があった。
  〇 耕作地の土壌改良手法「天地返し」が行われ、土壌適応作物に転換し、復旧した。
  〇 もし、現代に同規模の大噴火が発生したら、交通機関がストップし、日常生活、産業活動に計り知れない被害・影響を
   与えることが予想される。等と詳しく説明し、「富士山は300年余沈黙しているが、活火山であり将来へあらゆる備えが
   必要である。」と結びました。

 

公開講座講師
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第258回講座「判明した玉縄城の全貌」

2019年(令和元年)5月12日(日)13:30~15:35 玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者:46名 (会員 29名、 一般 17名)

講師:大竹 正芳 氏 (日本城郭史学会委員  日本画家)
講師は、自ら団長として携った2007年から2010年までの玉縄城祉の現地測量調査と、2015年に玉縄歴史の会と共同で行われた「くいちがい」(道筋が折れ曲がっている地形)と称する遺構の測量調査について進め方や結果(内容)を、形状・図面を板書しながら詳しく説明しました。その中で、
〇 現地は開発前の3分の1弱が残っており、思っていた以上に遺構が現存していた。
〇 「くいちがい」遺構については、「玉縄城址本来の地形であり、他に類を見ない貴重な曲輪」だ。
と強調し、「今まで漠然としていた玉縄城遺構の全貌がかなり判明した」とまとめました。
また、最後に講座内容の理解をより深めるため5月20日予定の当会主催の「玉縄城址見学歴史散策会」への参加を推奨されました。

 

公開講座講師
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第257回講座「木村 彦三郎「あ能(の)ころ」を読む」

平成31年4月7日(日)13:30~15:20玉縄学習センター分室 第3集会室
  参加者:36名(会員28名、一般8名)

※講師:添田 信雄 氏 (当会会員・世話人)
(補足解説 :平田 恵美 氏(鎌倉市中央図書館近代史資料収集室))

講師は『道ばたの信仰』などで著名な鎌倉の郷土史家・木村彦三郎が昭和51年(1976)頃に「鎌倉タイムス」に連載した随筆「あ能(の)ころ」を読み、昭和3年(1928)前後に「湘南ロッジ」を拠点にして反戦地下活動を行っていた社会活動家の一面を知り、大変興味を持ったことを披露し、解説がなされた。本講演を受けて、参加されていた平田恵美氏から同人の先達でもある「木村彦三郎氏の生い立ち、広い交友関係、鎌倉アカデミア創設話などなど」を、年代を追って補足解説していただき、木村彦三郎氏の人となりの理解を深めることができました。

 
 

第256回公開講座「玉縄地域、関連地域の武将たち」  

平成31年3月3日(日)13:30~15:13 たまなわ交流センター1階(NPO大船)
参加者:33名(会員23名、一般10名)

講師:佐藤 邦男 氏(郷土史研究家)
 講師は、天平年間から寛永年間までに及ぶ玉縄地域、関連地域の事象や主な武将たちの歴史的事績について年代を追いつつ解説しました。
特に玉縄城を築城した伊勢宗瑞及び同歴代城主と主な家臣団・玉縄北条一族の盛衰、鎌倉権五郎景政その他について、手元配付資料と貴重な回覧資料及び現地調査の体験談を交えて詳しく説明しました。

公開講座講師
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第255回講座「方位から見た大倉御所(試論)」 

平成31年2月3日(日)13:30~16:01 たまなわ交流センター1階(NPO大船)
参加者:43名(会員28名、一般15名)

講師:玉林 美男 氏(鎌倉市文化財課嘱託)
講師は講座の冒頭、「現在、大倉御所の推定地が私立清泉小学校の校地とその西側であるとの説が定説化しているが、検証はされていない。そこで改めて検証してみた。」と前置きをして、周辺の考古学的調査結果と『吾妻鏡』に記されている「方位」の観点とを論拠に挙げ、大倉御所の推定地を荏柄天神社下辺りとする仮説に基づく見解(試論)を説明された。
  なお、資料は「方位から見た大倉御所(試論)」(かまくら考古 第37号)を用いた。

 

公開講座講師
公開講座・風景
 

 

「平成31年度「玉縄歴史の会」定時総会」
第254回講座「写真で見る昭和の玉縄とその周辺」

H31年1月13日(日)13:30~15:35玉縄学習センター分室 第3集会室
  13:30~13:55「平成31年度「玉縄歴史の会」定時総会」参加者:会員31名
  14:05~15:35「第254回公開講座」参加者:35名(会員31名、一般4名)

(定時総会)
冒頭の関根会長の挨拶に続き平成30年度事業報告、同会計報告、同会計監査報告、会則の一部改定、世話人等の選出と退任世話人の報告、平成31年度事業計画について審議が行われ全会一致で承認された。
(第254回公開講座) 講師:関根 肇氏(当会会長)

講師は、冒頭に玉縄地区の歴史的変遷を概観し、その後、大正、昭和、平成初期の玉縄とその周辺の小学校、著名な施設・建物・橋・道路の状況、住民の生活の様子等を捉えた、講師が所蔵する当時の写真を示しながら変化していく地域社会と世相を分かりやすく説明された。
参加者は一枚、一枚の写真に強い興味を示し、その都度質問や驚きの声を発し、講師と対話するような場面もあり盛況裏に終了した。

 

第253回講座「『明治3年 城廻村村明細帳』を読む」 

平成30年12月2日(日)13:35~15:40玉縄学習センター分室 第3集会室
参加者:28名(会員23名、一般5名)

講師:平田 恵美氏(鎌倉市中央図書館近代史資料室)
   /小坂 勝代氏(当会世話人、古文書の会会員)/岩間 勝之氏(当会会員、古文書の会会員)

平田講師から「村明細帳」についての解説が行われた後、小坂講師が自宅に保管されていた「城廻村明細帳」の逐条読下しを行った。その後、岩間講師より当時の借金証文4種を読下し、解説された。なお、平田講師には全般にわたる解説もしていただいた。

 

253回講座講師
253回講座講師
253回講座講師

 

第252回講座「古墳時代の横穴古墳~いたち川流域の様相~」

H30年11月4日(日)13:35~15:45玉縄学習センター分室 第3集会室
参加者:38名(会員27名、一般11名)

講師:柏木 善治氏(かながわ考古学財団・調査研究部長)
古墳時代の終末期(西暦600~720頃)を中心に古墳と横穴墓の形態的特長、地域的分布状況、ならびに埋葬に関する
副葬品や線刻画の特徴などを解説の後、いたち川流域や洗馬谷横穴墓の状況につき詳しく解説された。

  

第251回講座「玉縄城と江戸湾の攻防)」 

 

H30年10月7日(日)13:35~15:50玉縄学習センター分室 第3集会室
参加者:41名(会員27名、一般14名)

講師:真鍋 淳哉氏(青山学院大学講師)
冒頭、伊勢宗瑞が相模に進出して玉縄城築城にいたる歴史と玉縄城の支配領域のひとつであった江戸湾沿いの水軍管理を背景に、
房総里見氏との激しい対立状況とそれに果たした玉縄城の役割・機能などにつき詳しく解説された。

 
 

第250回講座「鎌倉幕府の兵站基地『山之内荘本郷』」

H30年年9月2日(日)13:30分~15:30玉縄学習センター分室 第3集会室
参加者:38名(会員29名、一般9名)

講師:北条 祐勝氏(前光明寺住職、本郷郷土史研究会会長)
山之内荘本郷は元々一大穀倉地帯と製鉄工人集団が存在した地勢的な特徴を持っていた。初期の鎌倉幕府は糧秣・兵器の兵站基地としてその特長を生かし、かつ幕府の艮(うしとら)の方向に證菩提寺の前進である大寺を建立し、幕府鎮護のの宗教的要地化した。しかし、幕府が安定化するとその性格が変化していった。その経緯が詳しく解説された

 

 

第149回「大山寺・大山阿夫利神社参拝」

2021年(令和3年)5月10日(月)am9:30 JR大船駅南改札ルミネ入り口前 集合
参加者:16名 (会員:14名 一般:2名)

案内人:藤 田 武 氏・船 坂 孝 男 氏(当会世話人(歴史散策会担当))

コース:JR大船駅 → JR藤沢駅・小田急線乗り換え → 相模大野駅乗り換え → 伊勢原駅下車(北口) →  バスにて大山ケーブル行き(良弁滝バス停下車) → (徒歩) → 大山ケーブル駅 → ケーブルにて阿夫利神社駅下車 → 大山阿夫利神社参拝・昼食 → 阿夫利神社駅 → ケーブルにて大山駅下車 → 大山寺参拝 → 大山寺駅 → ケーブルにて大山ケーブル駅下車(解散14:20) 

 

第148回「大庭御厨跡の名所を訪ねて」

2021年(令和3年)4月12日(月) 09:30 JR大船駅南口改札・ルミネ入口前 集合
参加者:21名 (会員:17名、一般:4名)

案内人:玉縄歴史の会世話人(歴史散策担当) 藤 田 武 氏・船 坂 孝 男 氏
コース:JR大船駅 → JR辻堂駅・北口バス停2番(湘南台駅西口行き)→ 大庭小学校前→ (徒歩)→ 大場城址公園→ 舟地蔵→ 舟地蔵公園・昼食→台谷戸稲荷→ 大六天バス停→ 湘南高校バス停→ 皇大神宮→ JR藤沢駅(解散)

 

第147回「長福寺参詣と篠原城址の見学」

2019年(令和元年)11月13日(水)09:30 JR大船駅南改札ルミネ入り口前 集合
参加者:16名(会員15名 一般1名 )

案内人:篠原城と緑を守る会
    〇事務局 長福寺住職九世 村 上 宥 真 師  〇会員 金 井 俊 博 氏と4名の方

コース:JR大船駅 → JR横浜駅(横浜線へ乗り換え) → JR菊名駅・降車 (徒歩) → 長福寺参詣 →  篠原城址見学 → (徒歩) → JR新横浜駅篠原口近くで解散 (12:16) 

 

第146回「甲斐路を訪ねるバスツアー」(玉縄歴史の会第8回バス旅行)」

2019年(令和元年)10月16日(水) 07:15 大船駅西口 大観ビル前集合
参加者:47名(会員21名 一般26名)

案内人:大竹 正芳氏(日本画家 日本城郭史学会委員) 
コース:大船・大観ビル前出発(07:20) → 圏央道・東名・中井PA(休憩) → 中央自動車道富士河口湖 → 須玉IC → 若神子城跡(須玉ふるさと公園)見学(11:10~12:35) → 昼食 (笹子茶屋・ほうとう料理) → 甲斐善光寺参拝(日本最古・源頼朝公木像、秘仏「峯薬師」等を拝観(14:05 ~14:50)) → 観光ぶどう園・ぶどう狩り → シャトー勝沼(試飲等) → 帰途 (17:00出発 往路と同じ道路) → 大船・大観ビル前着・解散(19:50)

  
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第145回「寒川神社参拝・宝物館見学と大(応)神塚めぐり」

2019年(令和元年)9月25日(水) 09:20 JR大船駅南改札前 集合
参加者:17 名 (会員:17名、一般:4名 )

案内人:玉縄歴史の会世話人(散策会担当)~清 田 光 治 氏・藤 田 武 氏
コース:JR大船駅 →(茅ヶ崎駅)→JR寒川駅~(徒歩)→ 安楽寺・大(応)神塚→ 寒川神社(祈祷)・神嶽山神苑(方徳資料館 )→ 同神社売店前(12:45解散)

 

 

第144回「玉縄城総構えの測量を終えて」

2019年(令和元年)5月20日(月) 09:30  清泉女学院正門前 集合
参加者:33名 (会員 19名 一般 14名)

案内人:大 竹 正 芳 氏 (日本城郭史学会委員・日本画家)
コース:集合後 → 玉縄城跡内(蹴鞠場・月見堂・諏訪壇)→ 大手口跡 → 太鼓櫓跡 → くいちがい曲輪(くるわ)・空堀り跡→「陣屋坂上」バス停(解散)

 
   
 

第143回「横浜市港南区永谷地区の寺社巡り」

平成31年4月17日(水)9:30大船駅南改札前集合
参加者:12名(会員11名 一般1名)

案内人:当会歴史散策チーム世話人・清田氏  貞昌院住職・源空哲也氏 
コース:大船駅 →(JR) 戸塚駅 →(バス)「日限山」バス停下車→「日限地蔵尊」→ 早駆けの道跡 →平戸永谷川遊歩道→「貞昌院・本堂」→「永谷天満宮」→ 地下鉄・「上永谷駅」(解散)

  

 
 

第142回「玉縄の古地名(小名)を訪ね歩く(その3)」   

H31年3月20日(水)9:30大船駅南改札前集合
参加者:19名(会員16名 一般3名)

案内人:関根 肇 氏 (当会会長)
コース:大船駅 →「玉縄台」バス停 下車→「せんば谷戸」→「鍛冶ヶ谷戸」→「石原谷戸」→「関谷インターバス停」(解散)

  

 
 

第141回「横浜市埋蔵文化財センターの見学」

平成30年11月19日(月)9:30大船駅南改札前集合
参加者:12名(会員11名 一般1名)

案内人:当会散策グループ、およびセンター学芸員 
コース:大船駅→JR港南台→バス停上郷ネオポリス→埋蔵文化財センター→バス停(解散)

  

 
 
 

第140回「光明寺資料館見学と證菩提寺宝物館拝観」 

H30年10月18日(木)9:15大船駅南改札前集合
参加者:18名(会員17名 一般1名)

案内人:光明寺・北条祐勝氏、證菩提寺住職、副住職
コース:大船駅→光明寺バス停→光明寺(本堂内拝観)→證菩提寺(本堂内、宝物館拝観)→稲荷森バス停(解散)

 

 
 

第139回「芦名淨楽寺の秘仏拝観と寺社めぐり」 

H30年9月18日(木) 9:30大船駅南改札前集合
参加者:18名(会員18名)

案内人:散策グループコース
コース:大船駅→(逗子駅)→淨楽寺バス停→淨楽寺(秘仏拝観)→前島密の墓→十二所神社→芦名城跡→淡島神社→淨楽寺バス停(解散)